HISTORICAL PERSON · 1481年没

アフォンソ5世 (ポルトガル王)

6歳で即位したポルトガル王で、「アフリカ王」と呼ばれた。アルカセル・セゲールやアシラー、タンジェを征服して北アフリカに領土を広げたが、カスティーリャ継承戦争に介入し1476年に敗れた。

生涯
1481年没
死亡地
ポルトガル共和国(リスボン県 / シントラ)
出生地
ポルトガル共和国(シントラ)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(リスボン県)

伝記

アフォンソ5世は、1432年1月15日にシントラで生まれた。父はポルトガル王ドゥアルテ1世、母はアラゴン王フェルナンド1世の娘レオノールである。1438年に父が急逝したため、わずか6歳で王位を継いだ。父の遺言により母后レオノールが摂政となったが、女性で外国人であることから支持は広がらず、1439年にコルテス(議会)はドゥアルテ王の弟で、アフォンソにとって最年長の叔父にあたるコインブラ公ペドロを摂政に選んだ。ペドロは大貴族の勢力を抑えて権力を王に集めようとし、1448年ごろにはアフォンソ法典の編纂を完成させたとされる。国は栄えたが、貴族の野心を妨げたため政情は穏やかでなかった。ペドロの異母兄でバルセロス伯のアフォンソは、1442年にブラガンサ公に任じられ、ポルトガルで最も有力な人物の一人となった。ブラガンサ公は摂政の座を狙って、幼い王に摂政が王位を狙っていると吹き込み、王はコインブラ公を敵視するようになった。

1443年、ドゥアルテ1世の弟フェルナンド王子がフェズで獄死し、遺骸は城壁から逆さに吊るされた。アフォンソ5世は、捕虜にしたモロッコの貴族たちと引き換えに叔父の遺骸を取り戻し、のちにバターリャ修道院に埋葬した。1446年、14歳で親政を始めると、もう一人の叔父エンリケ航海王子の斡旋でコインブラ公は政治顧問に退き、実権はブラガンサ公とその息子に移った。1448年、王はペドロの娘で従妹のイザベルと結婚し、2人の間に2男1女が生まれた。同年、王は摂政時代の布告をすべて取り消した。翌1449年、コインブラ公がブラガンサ公にコインブラ領の通過を認めなかったことなどから対立が深まり、王はアルファロベイラの戦いでペドロを敗死させた。

その後の王は北アフリカの拡大に力を注ぎ、1458年にアルカセル・セゲール、1471年にアシラーとタンジェを征服した。この結果、モロッコで5つの都市を掌握して、「アフリカ王」と呼ばれるようになった。ギニアの交易は、海岸の探検を条件にフェルナン・ゴメスに独占権が与えられ、ここから金の交易が見つかって、その利益が王の征服を助けたという。王が1457年に依頼したフラ・マウロの世界地図は、エンリケ航海王子に探検の資金援助を続けるよう促す手紙とともにポルトガルへ送られた。

1475年ごろ、カスティーリャ王エンリケ4世の死をめぐり、イサベルと、エンリケの長女とされるフアナの間で王位争いが起こった。妃に先立たれていた43歳のアフォンソ5世は14歳の姪フアナと婚約し、教皇の許可が前提だったが、カスティーリャ・ポルトガル両国の王になれると乗り気になり、王太子ジョアンの同意も得て、2万の兵を率いて侵攻した。しかしカスティーリャ人と軍の大半は、出自の明らかでないフアナよりイサベルを支持した。1476年3月のトロの戦いで決定的な勝利を得られず、フランスのルイ11世に援助を求めたが失敗した。1477年7月の条約で戦争は終わり、王はフアナとの結婚を解消して、カスティーリャ王位の請求権を放棄した。条約にはポルトガル王太子の長男アフォンソとカスティーリャ王女イサベルの婚約も含まれた。フアナは17歳で王冠を放棄し、コインブラの聖クララ修道院に入った。晩年は王太子ジョアンに実権を譲り、1481年8月28日に死去した。ジョアンはジョアン2世として即位した。

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