HISTORICAL PERSON · 1853年没

マリア2世 (ポルトガル女王)

ブラガンサ朝のポルトガル女王(在位1826〜53年)。リオデジャネイロ生まれで、幼くして女王と宣言された。叔父ミゲルの王位僭称で内戦となり、1834年にミゲルが敗れて国王権力を委ねられた。

生涯
1853年没
死亡地
ポルトガル共和国(リスボン県 / リスボン)
出生地
ブラジル連邦共和国(リオデジャネイロ)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(リスボン県)

伝記

マリア2世は、1819年4月4日にリオデジャネイロで生まれたブラガンサ朝のポルトガル女王である。在位は1826年から1853年とされるが、途中でミゲルに王位を奪われた時期があり、支持者はその間も彼女を正統な女王とみなした。「教育王」と呼ばれ、ブラジル皇帝ペドロ2世の姉にあたる。父はポルトガル王ペドロ4世(ブラジル皇帝ペドロ1世)、母は皇后マリア・レオポルディナで、オーストリア皇帝フランツ1世の次女である。その長女として、ポルトガル宮廷がブラジルに亡命していた時代の新大陸で生まれ育った。ヨーロッパ君主としてヨーロッパの外で生まれた唯一の人物であるとされる。

1826年に祖父ジョアン6世が没すると、ブラジル皇帝ペドロ1世にポルトガル王位継承権が生じた。しかしブラジルはこれを手放そうとせず、ペドロ1世は7歳の長女マリアをポルトガル女王と宣言した。これがマリア2世である。マリアはブラジルにいたまま叔父ドン・ミゲルと婚約したが、1828年にオーストリア外遊からポルトガルに帰国したミゲルは彼女を無視して王位を僭称した。ポルトガルにはマリア2世とミゲル1世という2人の国王が並び立つ事態となった。外遊中にメッテルニヒの薫陶を受けたミゲルは、絶対君主として極端な保守反動の政治を行った。マリアはジブラルタルに着いたところで廃位を知り、イギリスを経てブラジルへ戻ったとされる。

これに対し、自由主義の立場にたつペドロは、1831年にブラジル皇帝位を5歳の長男ペドロ2世に譲った。マリアはその後フランスで教育を受けている。1832年にペドロは軍を率いてポルトに上陸し、ポルトガルは兄弟が相争う内戦に突入した。パルメラ公爵を中心とするペドロ派は1833年7月にリスボンへ入城し、若き女王も同年9月にリスボン入りを果たした。内戦は1834年にミゲルの敗退で終わり、ペドロも同年に死んだ。同年9月、ポルトガルのコルテス(議会)は15歳のマリア2世に国王権力を正式に委譲し、あわせてナポレオン1世の養子ウジェーヌ・ド・ボアルネの長男、ロイヒテンベルク公アウグストとの結婚を承認した。しかしアウグストは翌1835年3月に25歳で病死し、子はなかった。マリアはブラジル帝室の一員であり続けたが、1835年に法律でブラジルの継承順位から除かれた。1836年4月、ザクセン=コーブルク=ゴータ公子フェルディナントと再婚し、夫は第一子ペドロの誕生後、ポルトガルの法に従ってフェルナンド2世として国王と宣言された。

治世には政情不安が続いた。内戦で活躍したコスタ・カブラル将軍が長く独裁的な権力を振るい、1846年に北部で起きた反乱はリスボンの政府を脅かしたが、翌年スペインとイギリスの軍事介入で終息した。1851年にはサルダーニャ将軍がクーデターで実権を握り、政情は比較的安定したという。

フェルナンド2世との間には7男4女が生まれ、うち4人は生後間もなく亡くなった。長男ペドロ5世、次男ルイス1世のほか、娘マリア・アナはザクセン国王ゲオルクの王妃となり、アントニアはルーマニア国王フェルディナンド1世の生母となった。度重なる難しい妊娠の末、マリアは1853年11月15日にリスボンで崩御した。出産のさなかの死で、34歳であったとされる。王位はペドロ5世が継いだ。

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