伝記
ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエは、1886年3月27日にドイツのアーヘンで生まれた建築家である。ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトとともに近代建築の三大巨匠、ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とみなされる。父ミヒャエルは墓石や暖炉を主に扱うネーデルラント系の石工で、母はアマーリエ(旧姓ファン・デル・ローエ)といった。大学で正式な建築教育は受けず、地元の職業訓練学校で製図工の教育を受けたのち、建築調査部で漆喰装飾のデザイナーとして働いた。
1906年にブルーノ・パウルの事務所に勤め、同僚の紹介で1907年に最初の作品であるリール邸を手がけた。この仕事が認められ、1908年から1912年までは建築家ペーター・ベーレンスの事務所に製図工として在籍し、建築を学んだ。1912年に独立して事務所を開設し、1913年にアダ・ブルーンと結婚した。アダの紹介で、ベルリン近郊の富裕層の住宅を設計している。1927年には、ドイツ工作連盟が主催したシュトゥットガルトの住宅展に参加し、ベーレンスやグロピウス、ル・コルビュジエ、ブルーノ・タウトらとともに、実験的な集合住宅を建てた。ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトのための記念碑も設計したが、1935年にナチスによって破壊され、現存しない。
1929年のバルセロナ万国博覧会でドイツ館として建設されたバルセロナ・パビリオンは、鉄とガラスで構成され、大理石の壁を配したもので、モダニズムの空間を実現した建築として建築史上有名である。このためにミースがデザインしたバルセロナ・チェアも、モダンデザインの傑作として知られる。パビリオンは博覧会の終了後に取り壊されたが、1986年に同じ場所に復元された。ブルノのトゥーゲントハット邸(1930年)も代表作である。グロピウスの推薦で、1930年からバウハウスの第3代校長を務めたが、1933年にナチスによってバウハウスが閉鎖された。ミース自身も、作風が十分に「ドイツ的」でないとナチスに判断され、国内で依頼を受けられなくなり、数年間はほとんど建築を手がけなかった。それでも、ナチスに嫌われたバウハウス出身でありながら、ベルリン改造計画のデザイン担当の候補には最後まで挙がっていたという。
1937年にアメリカへ亡命し、1938年から1958年まで、シカゴのアーマー大学(後のイリノイ工科大学)建築学科の主任教授を務めて、クラウン・ホールをはじめとするキャンパス計画を手がけた。1944年にはアメリカ市民権を獲得した。四方をガラスの壁で囲んだファンズワース邸(1951年)も代表作の1つで、中央のコア部分以外は間仕切りがなく、外壁がすべてガラスでできている。週末別荘として建てられたが、建設費が予算を大幅に超えたため、施主のエディス・ファンズワースと訴訟になり、ミースが勝訴した。超高層ビルの実作品としては、ニューヨークのシーグラム・ビルディング(1958年)があり、1952年竣工のリーバ・ハウスと並んで、最も優れたデザインの超高層ビルともいわれる。ほかにシカゴのレイクショアドライブ・アパートメントや、西ベルリンの新ギャラリー(1968年)などがある。1969年8月17日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- レオン・シウール (1969年没)
- エドゥアルド・モンドラーネ (1969年没)
- 張沢相 (1969年没)
- ヴァーノン・デューク (1969年没)
- リース・マルツェル (1969年没)
同じ地域に関係する人物
- パウル・ティリッヒ (1965年没)
- サム・ジアンカーナ (1975年没)
- フランク・ナイト (1972年没)
- ボブ・フィッシモンズ (1917年没)
- スティーブン・W・カーニー (1848年没)