伝記
ルイス・ブライアン・ホプキン・ジョーンズは、1942年2月28日に生まれたウェールズ系でイングランド出身のギタリストで、ローリング・ストーンズの創始者であり初代リーダーである。航空技師の父ルイス・ブラウントと母ルイザ・ベアトリスのもと、ミック・ジャガーと同じ中流階級に育った。幼い頃からピアノを習い、地元の教会の少年聖歌隊に入り、学校のオーケストラでクラリネットを習うなど、音楽に恵まれた環境だった。少年時代は歯科医を志していたという。
1958年に地元のジャズ・バンドに加入し、ギターとサックスを習得して、ダンスパーティや学校などで演奏した。一方で、十六歳のとき十四歳の少女を妊娠させたことで、チェルトナムのグラマースクールを除籍された。その後はバスの運転手やレコード店員、石炭商などの職を転々とした。1960年にアレクシス・コーナーと出会い、ヒッチハイクで各地を旅して日銭を稼いだ。1961年10月には、交際相手との間に三人目の子ジュリアンが生まれた。1962年、コーナーの助言でロンドンに移り、デパート店員として妻子を養ったが、音楽への情熱を捨てきれず、求人誌にバンドメンバーの募集広告を出した。応じてきたのが、のちのバンド仲間イアン・スチュワートだった。同年3月にはコーナー率いるバンドにギタリストとして加わり、チャーリー・ワッツと知り合った。
1962年4月7日、イーリング・ジャズ・クラブで、エルモア・ジェームスの曲をスライドギターで演奏した。客席にいたミック・ジャガーとキース・リチャーズは感銘を受け、終演後に初めて言葉を交わした。三人は世界中でこの手の音楽をやっている唯一の仲間だと確信してバンドを結成した。6月にジョーンズが「ローリング・ストーンズ」という名を提案し、一部に反発されたが、代案がなかったので採用された。12月にビル・ワイマンがベーシストとなり、翌1963年にワッツの引き抜きにも成功して、同年6月にデッカと契約してデビューした。
ストーンズは当初、イギリスの白人聴衆に本物のR&Bを聴かせることを目的とし、ジョーンズは「R&Bバンド」と名乗った。だが体調不良や彼女とのデートで仕事を欠くなど、リーダーにふさわしくない行動が目立つと、主導権は間もなくジャガーとマネージャーのオールダムに移った。ジャガーとリチャーズがオリジナル曲を作り始めると、作曲の力に乏しいジョーンズは存在感を失った。1964年のアメリカ・ツアーで麻薬がバンドに入り込み、彼はすぐに薬物依存に陥った。一方、ギター以外の楽器でも存在感を示そうと、マリンバ、ダルシマー、シタールなど当時のロックでは珍しい楽器を導入し、サイケデリック期のサウンドに影響を与えた。
1967年5月に大麻所持の容疑で逮捕され、10月に九か月の禁固刑が言い渡されたが、12月の上告審で罰金と三年間の保護観察に減刑された。翌年にも大麻所持で再び逮捕され、バンド内では彼を排除しようとする動きが出始め、ジャガーによれば、この頃の彼はギターを持つこともできなくなっていた。1969年6月8日、ジャガーらが自宅を訪ねて脱退を勧め、ジョーンズは一時金十万ポンドなどの条件に同意した。新しいバンドの練習を始めたが、脱退から間もない7月3日午前零時ごろ、自宅のプールの底に沈んでいるのを発見され、医師が到着したときには既に死亡していた。二十七歳だった。検死の結論は「酒と薬物の影響による不運な出来事」で、7月5日のハイドパーク公演は追悼公演となった。葬儀は10日に行われ、故郷チェルトナムに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- 植芝盛平 (1969年没)
- レオン・シウール (1969年没)
- チャールズ・ドボラク (1969年没)
- ジェフリー・ハンター (1969年没)
- エルンスト・ドイッチュ (1969年没)
同じ地域に関係する人物
- シリル・スコット (1970年没)
- ウィリアム・プルーマー (1973年没)
- スパイク・ミリガン (2002年没)
- マルコム・マゲリッジ (1990年没)
- ヴァネッサ・ベル (1961年没)