伝記
植芝盛平は、1883年(明治16年)12月14日、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現在の田辺市)の富裕な農家に、長男として生まれた武道家で、合気道の創始者である。父与六は村会議員を務める有力者で、40歳にして初めて恵まれた男児として溺愛された。幼い頃は病弱で内向的な読書好きの少年だったが、与六は近所の漁師の子と相撲を取らせて体力と覇気を養わせた。田辺中学校を一年足らずで中退し、田辺税務署に勤めたが、漁民の権利運動「磯事件」に加担して退職した。1902年に上京して文房具の卸売業を始め、柔術や剣術も学んだものの、脚気を患って無一文で帰郷した。裸足で山野を駆ける鍛錬で頑健な体を得て、同年10月、幼馴染の糸川はつと結婚した。
1903年、身長が基準に足りず徴兵検査に不合格となったが、さらに鍛錬して嘆願を重ね、12月の再検査で合格し、歩兵連隊に入隊した。銃剣術では上官の代理を務めるほどで、仲間から「兵隊の神様」と呼ばれた。日露戦争では戦地に出征したが、本格的な戦闘には加わらなかった。1906年に除隊して田辺に帰ったあとは進路が定まらず、奇行を繰り返したため、心配した父が納屋を道場に改造して柔道家を招いた。盛平は柔道に夢中になり、気持ちも落ち着いたという。1912年には、政府の募集に応じて54戸80余名の「紀州団体」の団長となり、北海道の白滝原野に移住した。酷寒や凶作に苦しみながら先頭に立って伐木を進め、ハッカ栽培などを奨励して、村を活気づけたことから、「白滝王」と呼ばれて尊敬を集めた。
1915年、遠軽の旅館で大東流の武田惣角に出会い、その技に衝撃を受けて入門した。1919年、父の危篤を聞いて全財産を惣角に譲り、北海道を離れた。帰郷の汽車で聞いた大本の出口王仁三郎の噂から、京都府綾部に立ち寄って心酔し、父の死後、一家で綾部に移って入信した。王仁三郎は「武道を天職とせよ」と論し、自宅に「植芝塾」を開いた。1924年には王仁三郎に随伴して満蒙に渡り、馬賊の一団とともにモンゴルへ向かったが、捕らえられて銃殺場に引き出された。日本領事館員の交渉で処刑は直前に中止され、九死に一生を得た(パインタラ事件)。この時の銃撃戦で、敵弾の前に「光のつぶて」が見え、それを避けて逃れたと伝わる。1925年には、「大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ、宇宙と一体化する」神秘体験をし、「武道の根源は神の愛であり、万有愛護の精神である」という確信を得たという。
同年、海軍大将竹下勇の招きで上京し、山本権兵衛ら要人の前で演武して感銘を与えた。1927年に東京へ移住し、1930年には柔道創始者の嘉納治五郎が来訪して、その演武を見て「これこそ真の柔道だ」と賞賛した。嘉納は講道館から望月稔を派遣して弟子入りさせた。1931年に新宿区若松町に道場「皇武館」を設立し、激しい稽古から「地獄道場」と呼ばれた。軍部の要請で陸軍戸山学校や憲兵学校、海軍大学校などでも武術を指導した。終戦後は息子で後継者の植芝吉祥丸とともに、合気道の社会への普及に努め、合気道は日本国内だけでなく、世界的に広まる国際的な武道に育った。紫綬褒章、勲三等瑞宝章などを受け、1969年(昭和44年)4月26日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ウォーレン・マカロック (1969年没)
- ニコラ・グルニツキー (1969年没)
- ウォルター・ヘーゲン (1969年没)
- マックス・ヴァインライヒ (1969年没)
- キモン・ゲオルギエフ (1969年没)