伝記
ジュディ・ガーランドは、1922年6月10日にミネソタ州グランドラピッズで、フランシス・エセル・ガムとして生まれたアメリカの女優・歌手である。ボードビリアンの両親のもとの三人姉妹の末っ子で、両親は現地で、ボードビルの演目を上映する映画館を経営していた。1926年に一家はカリフォルニア州ランカスターへ移住し、このころから母は娘たちを映画に出演させようと働きかけはじめた。二人の姉とともにガム・シスターズの一人としてデビューし、1935年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約を結んだ。社長のルイス・B・メイヤーは、ディアナ・ダービンとジュディのうち、ジュディを外すようプロデューサーのアーサー・フリードに命じたが、フリードは歌唱力に注目して、その指示を無視して契約を結んだという。当時13歳で体重は健康的な範囲内だったが、MGMは契約に「スリムでいること」を含めて強制的なダイエットを命じ、体質的に太りやすかった彼女は、ダイエット薬として使われていた覚醒剤を常用するようになった。
MGMは当時の大スターだったミッキー・ルーニーとコンビを組ませ、「裏庭ミュージカル」と呼ばれるシリーズを次々と制作してヒットさせた。『青春一座』(1939年)で初めてダブル主演となり、ハーディ・ファミリーのシリーズなど5作でルーニーと共演した。ガーランドは、撮影のペースについていくため、若い出演者たちは常に覚醒剤を処方され、眠るときにはバルビツール酸を飲まされていたと述べ、これが生涯にわたる薬物乱用につながったとした。ルーニーは、中毒の責任がスタジオにあることを否定している。1939年のミュージカル映画『オズの魔法使』でドロシー役に抜擢され、人気スターとなった。当初MGMはドロシー役を20世紀FOXのシャーリー・テンプルに演じさせようとしたが、交渉が頓挫したため、ジュディが急遽演じることになった。この役でアカデミー子役賞を受賞した。その後も『若草の頃』(1944年)、『ハーヴェイ・ガールズ』(1946年)、フレッド・アステアと共演した『イースター・パレード』(1948年)などで主役をつとめ、国民的な人気を不動にした。
1941年に作曲家のデヴィッド・ローズと結婚して1943年に離婚した。この頃から神経症と薬物中毒の影響が表れ、撮影への遅刻や欠勤を繰り返すようになる。1945年に映画監督ヴィンセント・ミネリと再婚し、翌年に娘ライザ・ミネリを出産した。1949年には『アニーよ銃をとれ』の撮影中に錯乱状態に陥って降板した。翌年にはMGMから解雇され、ショックを受けて再び自殺未遂を起こした。1952年にシドニー・ラフトと3度目の結婚をし、ビング・クロスビーらの勧めでロンドンやニューヨークで歌手としてステージに立ち、これが成功して、ジャズ歌手としての歌唱力が再認識された。1954年に『スタア誕生』で久々に映画に出演して、ゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞し、アカデミー主演女優賞にもノミネートされたが、受賞は『喝采』のグレース・ケリーだった。1961年には7年ぶりに『ニュールンベルグ裁判』に出演してアカデミー助演女優賞にノミネートされ、同年のカーネギー・ホールのコンサートの録音盤で、女性として初めてグラミー賞の最優秀アルバム賞を受賞した。その後は薬物中毒と神経症が悪化した。1969年6月22日、滞在先のロンドンの借家のバスルームで、睡眠薬の過剰摂取により、47歳で亡くなった。検視官は意図的なものではないと述べ、死亡診断書には「偶発的」と記された。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート・アルブレヒト (1969年没)
- トーマス・ドウ (1969年没)
- ボリス・カーロフ (1969年没)
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- グラジナ・バツェヴィチ (1969年没)
同じ地域に関係する人物
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- スザンナ・ヨーク (2011年没)
- ロザリンド・フランクリン (1958年没)
- ジョージ・ジョンストン・ストーニー (1911年没)
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