伝記
ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワーは、1890年10月14日、テキサス州デニソンで、デイヴィッド・ジェイコブとアイダ・エリザベスの三男として生まれた第34代アメリカ合衆国大統領である。通称はアイクといった。一家はドイツ系で、宗教的迫害を逃れて17世紀にスイスへ移り、1730年にペンシルベニアへ渡った家系に近い。母アイダは信仰に厚く、1898年に受洗した。一家は1892年にカンザス州アビリーンへ転居した。アビリーン高校に在学中、膝の怪我から感染症が脚の付け根まで広がり、医師に足の切断を勧められたが拒み、奇跡的に回復したものの1年留年した。1909年に高校を卒業したのち、兄エドガーと大学進学を望んだが、経済的に困難だったため、一方が通学して他方が学費を稼ぐ取り決めをし、最初の年はエドガーが大学へ通い、ドワイトはバター工場で夜勤の従業員として働いた。
友人の勧めで、無償で教育を受けられる海軍兵学校の受験を知り、軍人になる決意を固めた。上院議員ジョゼフ・ブリストウの推薦を得て、陸軍と海軍の入学試験に合格したが、海軍は年齢制限で入れず、1911年にウエストポイントの陸軍士官学校に入学した。1915年に卒業し、1916年7月1日にマミー・ダウドと結婚して、二人の息子をもうけた。第一次世界大戦への従軍を願い出たが許されなかった。1919年には、軍用車両81台による大陸横断キャラバンに参加し、舗装されていない道路事情を課題とする報告書を出した。この経験が、のちに大統領として、州をまたぐハイウェイの建設に巨費を投じる国家事業を進める要因になったという。1920年代の終わりから1930年代にかけては軍歴が停滞し、16年間も少佐のままだった。のちマッカーサーのもとで補佐官を務め、フィリピンでは、マッカーサーが無断で計画したパレードをめぐり、責任を負わされた。1936年にようやく中佐に昇進した。
1940年1月に帰国すると、順調に昇進し、1941年9月に准将となった。真珠湾攻撃後は、フィリピンの知識を買われて参謀本部の戦争計画局に入り、参謀総長マーシャルの信任を得て、1942年3月には作戦部長となり、対独作戦の計画を立案した。1942年6月にロンドンで連合国軍の最高司令官に着任し、同年11月8日のトーチ作戦では、上陸作戦の最高司令官の座を求めたジロー将軍を説得して収め、調整能力を示した。1944年3月に大将となり、中佐から4年での昇進は空前の速さだった。チャーチルは遠征軍の最高司令官にマーシャルを望んだが、統合参謀本部の面々が反対し、ルーズベルト大統領はアイゼンハワーに決めた。アイゼンハワーは1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の実行を決断し、作戦は成功した。同年12月20日に元帥に昇進し、第二次世界大戦の勃発時に一介の中佐だった人物としては、アメリカ陸軍史上空前の記録だった。1945年末まで450万人の連合軍の最高司令官を務めた。
戦後は1945年11月に陸軍参謀総長に任命され、1948年2月まで在任した。1948年7月にコロンビア大学の学長となった。1950年12月には北大西洋条約機構軍の最高司令官になり、1952年7月に大統領選挙に出るため陸軍を退役した。それまで政治にほとんど関心がなく、選挙で投票したこともなかったと伝えられる。民主党と共和党の双方から要請されたのち、共和党の候補となった。大統領を二期八年務め、後のケネディ大統領はただちに、1944年12月20日にさかのぼって現役の陸軍元帥に再任した。1969年3月28日に亡くなった。
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