HISTORICAL PERSON · 1848年没

ジョン・クィンシー・アダムズ

アメリカ合衆国第6代大統領。第2代大統領ジョン・アダムズの息子で、初の親子二代の大統領。外交官として各国に赴き、国務長官としてモンロー主義の確立に尽力した。1828年の選挙で再選に失敗し1期で退いた。

生涯
1848年没
死亡地
アメリカ合衆国(ワシントンD.C. / アメリカ合衆国議会議事堂)
出生地
アメリカ合衆国(ブレインツリー)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ワシントンD.C.)

伝記

ジョン・クインジー・アダムズは、1767年7月11日にマサチューセッツ州ブレントリー(現在のクインジーの一部)で生まれ、1848年2月23日に没したアメリカ合衆国の政治家で、第6代大統領である。父は第2代大統領ジョン・アダムズ、母はアビゲイル・アダムズで、最初の親子二代の大統領となった。名は母方の祖父であるジョン・クィンジー大佐にちなむ。7歳のときにバンカーヒルの戦いを目撃し、1779年には日記を書き始めて、それを1848年に死去するまで続けた。

青年期の多くは、父の外遊への同行に費やされた。父が使節としてフランスやオランダに赴いた際に同伴し、ライデン大学などで学んだ。14歳からおよそ3年間は、ロシアの国家承認を得る使節としてサンクトペテルブルクへ赴任するフランシス・ダナに同行している。この間にフランス語とオランダ語を習得した。その後ハーバード・カレッジに入り、1788年に卒業した。その後、ニューベリーポートで見習い弁護士となり、1791年にボストンで開業した。

1794年にワシントン大統領からオランダ担当大臣に任命されて外交官の道を歩み、ポルトガル担当大臣を経て、父が大統領に就いた1797年にはプロシア担当大臣となった。ロンドンでアメリカ人商人の娘ルイーザ・キャサリン・ジョンソンと結婚している。帰国後は政界に入り、1803年から連邦上院議員を務めたが、ルイジアナ買収や1807年の禁輸法を支持したため地元の連邦党員の支持を失い、1808年に辞任して民主共和党に入った。1809年にはマディソン大統領からロシア担当大臣となり、妻と共に任期の大半をサンクトペテルブルクで過ごし、ルイーザは外交官の妻として重要な役割を果たした。1812年にはナポレオンのロシア侵攻の報告をワシントンに持ち帰った。1814年に米英戦争の停戦交渉の責任者を命じられ、ガン条約が結ばれて停戦が成立した。1815年から1817年まではイギリス担当大臣を務めた。

1817年から1825年までモンロー政権の国務長官を務め、アダムズ=オニス条約でスペインと交渉し、フロリダ獲得の手段を整えた。モンロー・ドクトリンを起草し、アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉を唱えたことでも知られる。1821年の独立記念日には、中南米諸国の独立運動へのアメリカの政策は精神的な援助であると述べ、アメリカは「破壊する怪物を求めて海外には行かない」と述べた。1824年の大統領選では、一般投票でジャクソンが最多得票を得たものの選挙人の過半数に届かず、選出は下院に預けられた。ヘンリー・クレイの支援を受け、アダムズは1825年2月9日の第1回投票で大統領に選ばれた。しかし、クレイを国務長官に指名したことでジャクソンの支持者は激怒し、「不正な取引」と糾弾した。この非難は任期中ずっと続き、1828年の敗北の原因となったとされる。

大統領としては近代化や教育に関する計画を提案したが、政敵が多数を占める議会に妨げられ、関税法や国立銀行の設置、軍事力の強化をめぐってもジャクソン支持者の議事妨害を受け、「呪われた政権」とも呼ばれた。インディアン政策では、前任者のモンローと同様にミシシッピ川以西への強制移住の方針を採ったが、条約を守り、土地は武力で併合せず相応の条件で購入すべきだと考えた。ジョージアのクリーク族から土地を奪った詐欺的な条約を再交渉しようとして、白人入植者の怒りを買った。1828年の選挙は史上最悪とも評された中傷合戦となり、ジャクソンに敗れて1期のみで退いた。その後は、史上唯一、大統領経験のある下院議員となった。

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