伝記
パオロ・ウッチェロは、初期ルネサンスのフィレンツェで活動した画家である。本名はパオロ・ディ・ドーノといい、ウッチェロ(鳥)という通称は、動物、とりわけ鳥を描くのが巧みだったことに由来するとされる。生年は1397年頃で、税の申告では1397年とされるが、1446年には1396年生まれだと述べている。生地はフィレンツェとも、父の出身地であるプラトヴェッキオともいわれる。父ドーノ・ディ・パオロは床屋兼外科医で、アレッツォ近郊の出身ながら1373年にフィレンツェの市民権を得ていた。母の名はアントニア・ディ・ジョヴァンニ・デル・ベックートという。生涯の資料は乏しく、伝記を書いたヴァザーリは没後約75年を経てからの人であり、他に同時代の公的な記録がわずかにあるだけである。
10歳にあたる1407年頃に彫刻家ロレンツォ・ギベルティの工房に入り、1412年頃まで学んだ。ここで後期ゴシックの物語的な様式や細部への注意を身につけ、生涯の友となるドナテッロとも知り合ったという。1414年に画家の同信会である聖ルカ組合に加わり、翌1415年10月15日にはフィレンツェ医師薬剤商組合に登録された。ヴァザーリによれば最初の絵は聖アントニウスの壁画で、ほかにサンタ・トリニタ教会の聖フランチェスコの生涯の連作なども描いたが、初期の作品は不明なものが多い。1425年から1427年頃には、ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂のモザイク装飾に携わった記録が残る。ヴェネツィアのフィレンツェ大使の推薦を受け、1431年にフィレンツェへ帰ると、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の仕事を受け、ドーム下部のステンドグラス3枚をデザインした。1436年にはフレスコ画『ジョン・ホークウッド』を完成させ、西壁の大時計の文字盤も手がけている。
ヴァザーリによれば、1445年にドナテッロに呼ばれてパドヴァでフレスコ画を描いたとされるが、それらは現存しない。1440年代のフレスコ画はサン・ミニアート・アル・モンテ教会とサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に残り、特に後者の『大洪水と終息』は最高傑作とされる。サン・ミニアートの回廊では聖父たちの生涯を描き、青い野や赤い町など通常でない色を用いた。ヴァザーリはこれを、修道院長が出すスープにもデザートにもチーズという単調な食事への抗議と伝え、画家は落胆して逃げ出し、普通の食事を約束されてようやく仕事を終えたという。遠近法を駆使した『サン・ロマーノの戦い』の三部作は、製作時期が不明で、長らく1416年のサンテジディオの戦いと誤って呼ばれていた。時期は晩年の1450年代か1460年代と推測されている。ウッチェロは後継の流派を残さなかったとされる。
晩年の彼は、ヴァザーリによれば家に引きこもって貧しく暮らしたというが、実際はそれほど困窮していなかったとの指摘もある。1475年12月10日にフィレンツェで死去し、サント・スピリト教会に埋葬された。遠近法へのこだわりから、画家というより数学者と見なされることすらあり、鮮やかな色使いも写実を重んじる後の画家には受け入れられにくかった。ゴシック的な幻想と幾何学の融合が改めて評価されたのは、20世紀になってからである。
同じ年に亡くなった人物
- ジョルジュ・シャトラン (1475年)
- バルトロメーオ・コッレオーニ (1475年没)
- Simon of Trent (1475年)
- ラドゥ3世 (1475年没)
- 申叔舟 (1475年没)
同じ地域に関係する人物
- ロレンツォ・ギベルティ (1455年没)
- ビアンカ・カッペッロ (1587年没)
- フランチェスコ・フリーニ (1646年没)
- テレマコ・シニョリーニ (1901年没)
- ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ (1472年没)