HISTORICAL PERSON · 1474年没

ギヨーム・デュファイ

ブルゴーニュ楽派の音楽家で、中世からルネサンス音楽への転換を担い「ルネサンス音楽におけるバッハ」と評される。約200曲が知られ、四声のミサ曲を多用し、循環ミサ曲の形態を確立した。

生涯
1474年没
死亡地
フランス共和国(ノール県 / カンブレー)
出生地
ベルギー王国(ベールセル)
出典
世界地図
フランス共和国(ノール県)

伝記

ギヨーム・デュファイは、1397年8月5日ごろに生まれ、1474年11月27日に没したルネサンス期のブルゴーニュ楽派の音楽家である。音楽の形式と精神の両面で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行った巨匠とされる。姓の読みがデュファイかデュフェかについては議論があり、1949年にファン・デル・リンデンがデュファイを正しいとしたのに対し、1965年にマック・クリントックがデュフェを正しいとして論争になった。日本では通常「デュファイ」と呼ばれる。

近年の説では、ブリュッセル近郊のベーアセルで生まれたと考えられている。1409年から1412年まで少年合唱隊で教育を受け、その才能を認められた。1414年にカンブレー近郊のサン・ジェリー教会で働き始め、1414年から1418年まではコンスタンツ公会議に同行した。1418年にカンブレーへ戻って副助祭となり、同年、イタリアのリミニの宮廷に移って本格的な作曲を始めた。1424年にはカンブレーに戻り、ラン大聖堂で副助祭を務めたと考えられている。1426年にイタリアのボローニャへ移り、1428年に司祭となった。その後、1433年までローマで教皇庁の歌手を務めた。

1433年にサヴォワへ移ってブルゴーニュ公やジル・バンショワと会い、1435年には再び教皇庁の歌手となった。1436年にはフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の献堂式のために「ばらの花が先頃」を作曲している。1437年に再びサヴォワへ移ってブルゴーニュ公に仕え、その後はサヴォワとカンブレーの間を行き来した。1459年にカンブレーへ戻り、オケゲムやビュノワと親交を持ち、ジョスカン・デ・プレらとも接触したと考えられる。

音楽の面では、百年戦争の休戦期にイングランドのジョン・ダンスタブルが伝えた3度や6度の協和音程、フランスのイソリズムを含むポリフォニー、青年期に接した旋律優位のイタリア音楽を統合し、イタリアで活躍したフランドル人チコーニアらの影響も受けて、ルネサンス音楽を開拓した。「ルネサンス音楽におけるバッハ」(皆川達夫)、15世紀最大の巨匠と評される。初期から晩年までの作風の変化を追うと、中世的な要素が創作を通じてルネサンス音楽へ成熟していく過程をたどることができるという。後期の作品には、次代のフランドル楽派に通じる要素も見られる。

宗教作品(76のモテットと9のミサ曲)と83の世俗作品(シャンソン、バラード、ロンドー)の、約200曲が知られている。それまで三声だったミサ曲を、中期の作品から主に四声とし、各楽章を同じ冒頭モチーフで始める形をとった。後のミサ曲の多くは循環ミサ曲の形をとるが、この形態を確立したのはデュファイといってよい。「ス・ラ・ファス・エ・パル」は、自作のシャンソンを定旋律にした四声の循環ミサ曲の代表作で、世俗曲を定旋律にした循環ミサとしては最古とされ、1450年ごろ、サヴォワのシャーロッテとフランスのドーフィン・ルイの結婚式のために書かれたと考えられている。晩年の最高傑作のひとつといわれる「アヴェ・レジーナ・チェロールム」には、長調と短調の対立が見られる。フォーブルドンと呼ばれる和音の手法を用いた聖歌にも特徴があり、シャンソンには親しみやすい旋律のものが多い。レクイエムも作曲したが、その作品は失われたままである。世俗作品は宗教曲に比べて顧みられることが少なかったが、ロンドン中世アンサンブルの世俗音楽全集によって一躍有名になった。

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