伝記
ボードゥアン3世は、10世紀半ばのフランドル伯で、「若き伯」と呼ばれた。940年ごろ、フランドル伯アルヌール1世と2番目の妃アデル・ド・ヴェルマンドワの子として生まれた。アルヌール1世はフランドル伯ボードゥアン2世と、イングランドのアルフレッド大王の娘エルフリスの子である。ボードゥアンは長男であったが、まもなく唯一の存命の息子となった。母方では、ヴェルマンドワ伯エルベール2世の孫にあたる。
名が文書に現れるのは早く、938年のサン・ベルタン修道院の文書に、アルヌールとアデルの子として記されている。942年7月には、父のヘント聖ペトロ修道院への寄進に際して、父の代理として名が挙がる。954年に母がこの修道院へ行った寄進の文書では、すでに伯の称号を与えられている。このころから父の共同統治者の立場にあり、ブローニュ伯領を自身の領地として治めていたらしい。この時期にベルグ、フュルヌ、イープル、ブルッヘ、ブールブールを要塞化したとされる。957年にはロジェ・ド・モントルイユを相手にアミアンの支配を争ったが、成功しなかった。
結婚は、961年より少し前、951年から959年のあいだとされる。相手はザクセン辺境伯、あるいは公とも呼ばれるヘルマン・ビルングの娘マティルデで、息子アルヌール2世が生まれた。958年、ヘントでの身分会議の場で、アルヌール1世は息子に伯領の統治を委ね、ボードゥアンは正式に共同統治者となった。短い治世のあいだ、ヘントの羊毛工業やフランドルの各地の市場について責任を負い、毛織物業の基礎を築いたとされる。これは後世のフランドルの経済的重要性の土台になったという。958年から961年のあいだには、ヘントの聖ペトロ修道院とドゥシーの町との争いを収めるため、自ら動いたことが文書に見える。
フランス王ロテールの下でノルマン人との戦いに加わり、その帰途に天然痘にかかった。961年の末に病に倒れ、降誕祭の日に病に苦しむようになり、962年1月1日に没したと伝えられる。没した場所は、ベルグのサン・ウィノック修道院ともサン・ベルタン修道院ともされる。埋葬はサン・ベルタン修道院で、同修道院の俗人院長を短期間務めていた。
息子のアルヌール2世はまだ幼く、ボードゥアンの死後、父アルヌール1世が再び伯として統治した。アルヌール1世は孫の後見人にフランス王ロテールを立て、962年にはロテールにアミアンなどの地を譲ったとされる。964年にアルヌール1世が死ぬとロテールはフランドルに侵入したが、フランドルの人々は反発し、アルヌール2世を伯に選んだ。
同じ年に亡くなった人物
- シグルズ・ハーコナルソン (962年没)
- インダルフ (スコットランド王) (962年)
同じ地域に関係する人物
- ジャック・セクレタン (2020年没)
- マルグリット・ド・ブルゴーニュ (1374-1441) (1441年没)
- ウスタシュ1世 (1049年没)
- Georges Beaucourt (2002年没)
- Charles Pacome (1978年没)