HISTORICAL PERSON · 1968年没

ハワード・フローリー

オーストラリア出身の生理学者。ペニシリンの抽出に成功し、チェーン、フレミングと共に1945年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

生涯
1968年没
死亡地
イギリス連邦(オックスフォードシャー / オックスフォード)
出生地
オーストラリア連邦(アデレード)
出典
世界地図
イギリス連邦(オックスフォードシャー)

伝記

ハワード・ウォルター・フローリーは、1898年9月24日に南オーストラリア州のアデレード南郊のモルヴァンで生まれた病理学者、生理学者で、ペニシリンの実用化によって1945年度のノーベル生理学・医学賞をチェーン、フレミングとともに受けた人物である。父ジョセフ・フローリーはイングランド出身の靴職人で、アデレードで自分の靴の製造業を営んでいた。ジョセフには先妻との間に2人の娘があり、のちに再婚した妻バーサとの間にも娘が2人生まれ、ハワードは4人の姉をもつ末っ子の、ただ一人の息子だった。1906年に一家は郊外の邸宅に移り、私立の学校に通ったが、そこで終生のあだ名をつけられた。1911年にアデレードのセント・ピーターズ・カレッジに入り、化学、物理学、数学、歴史で優秀な成績を収め、クリケットやオーストラリアン・フットボールなどのスポーツもした。学費は4つの奨学金でまかなわれた。第一次世界大戦が始まると入隊を望んだが、両親の許可が得られなかった。

実業家となった父の跡を継ぐのではなく、医学を学んだ姉ヒルダの後を追うことを選び、1917年3月にアデレード大学に入った。学費は州の奨学金で全額まかなわれ、1918年に父が心臓発作で亡くなり、会社が破産しても学業を続けられた。この大学で、のちの妻で共同研究者となるエセル・リードと出会った。医学研究を志して留学を望み、ローズ奨学生としてオックスフォード大学のモードリン・コレッジで研究を行い、学士号と修士号を得た。1926年にケンブリッジ大学のフェローとなり、1年後に博士号を取得した。アメリカで研究生活を送ったのち、1931年にシェフィールド大学の生理学の教授になり、1935年に再びオックスフォードに戻り、ウィリアム・ダン病理学研究所の所長となった。多分野のスタッフを集め、大きな研究課題に取り組めるチームを作った。

1938年、エルンスト・ボリス・チェーンらとともに、アレクサンダー・フレミングの論文を読み、抗菌活性について議論した。彼らの研究チームは、カビ由来の生成物質を大規模に探索して、抗菌活性のある成分を抽出した。フレミングが発見したあとも開発を放棄していたペニシリンを、実用的で有効な薬にしたのは、フローリーとオックスフォードの研究チームだった。薬を育て、精製し、製造する技術を開発して、動物で毒性と有効性を調べ、最初の臨床試験も行った。1941年にはオックスフォードの巡査にこの薬を使い、回復し始めたが、当時はペニシリンが十分に作れなかったために、のちに亡くなった。その後のイギリス、アメリカ、北アフリカでの試験は大きな成功を収め、第二次世界大戦中の1945年に、ペニシリンの工業生産に成功した。

1944年にナイトに叙され、1965年には一代貴族として男爵位を授けられた。1941年に王立協会のフェローとなり、1960年から1965年まで会長を務めた。1962年にオックスフォード大学のクイーンズ・カレッジの学長となり、1965年から亡くなるまで、オーストラリア国立大学の総長でもあった。公衆衛生の向上による人口増加に関心を持ち、避妊の忠実な信者でもあった。1966年に妻エセルを亡くし、翌年再婚した。1968年2月21日、オックスフォードで心臓発作により亡くなった。彼の発見によって救われた命は8千万人を超えると推計され、首相メンジーズは「世界の幸福という点では、フローリーはオーストラリアに生まれた最も重要な人物だった」と語った。肖像は長年、50オーストラリアドル紙幣に使われていた。

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