伝記
ジョージ・マイケル、本名イェオルイオス・キリアコス・パナイオトゥは、1963年6月25日にロンドン郊外のフィンチレーで生まれたイギリスのシンガーソングライターである。父はギリシャ系キプロス人のキリアコス・パナイオトゥ、のちに改名してジャック・パノスで、母はユダヤ人の血を引くイギリス人のレズリーだった。子どもの頃から内気で、頭の中で「ジョージ・マイケル」という架空のヒーローを想像し続けていたといい、デビュー後にもう一人の別人格の自分として、この名を名乗るようになった。1975年に学校へ入学してアンドリュー・リッジリーと出会い、1979年にはその兄らを加えた5人でエグゼクティブというバンドを結成したが、レコード会社に売り込んでも相手にされず、すぐに解散した。
1981年、アンドリュー・リッジリーとポップ・デュオのワム!を結成し、デビュー曲に続いて数々のヒットを飛ばした。「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」「ケアレス・ウィスパー」「ラスト・クリスマス」などの世界的なヒット曲を、作詞作曲して歌った。しかし、ソロで活動することを強く望むようになり、解散が決まって、1986年6月28日にウェンブリー・アリーナで解散ライブを行った。ワム!時代の中ごろから無精髭を生やすようになり、ソロになってからはこれがトレードマークとなった。同年、アレサ・フランクリンのアルバムにデュエットで参加し、その曲は1987年にシングルとなって、全英・全米の両チャートで1位を獲得した。
1987年に初のソロ・アルバム『フェイス』を発表すると、記録的な大ヒットとなり、1988年のグラミー賞を受けた。白人アーティストとして初めてブラック・アルバムのチャートで1位を獲得し、ビルボードのアルバムとシングルの両方で、その年の年間1位となった。1988年2月19日、東京の日本武道館からワールド・ツアーが始まった。1990年の2作目のアルバム『リッスン・ウィザウト・プレジュディス』は、本人は出来に満足していたが、レーベルが前作ほど宣伝に力を入れなかったこともあって、アメリカでは売れ行きが低迷した。レーベルから酷評されたことに怒って、アーティストをアーティストとして扱わないと訴え、契約の無効を求めて裁判を起こした。この裁判が長引き、予定されていた第2弾の発売はなくなった。ヨーロッパでは、前作より多く売れたアルバムでもあった。この後、「ツアーは行わない」と宣言したが、2006年9月にデビュー25周年のツアーを開始し、ロンドンの新しいウェンブリー・スタジアムの最初の公演も務めた。
2011年11月、ウィーンでのコンサートの開始2時間前に胸の痛みを訴えて病院に運ばれ、肺炎と診断されて、以降のツアーが中止となった。入院後には意識不明になって集中治療室に入るなど重篤な状態が伝えられたが、12月21日に退院し、救ってくれた病院の職員をライブに無料で招待したいと語った。2012年2月のブリット・アワードにサプライズ出演し、同年8月12日のロンドン・オリンピック閉会式でも歌った。2014年3月には、生涯最後で唯一のライブ・アルバムとなる『シンフォニカ』を出した。のちにテレビ番組でゲイであることを公表している。2016年12月25日午後、オックスフォードシャー州の自宅で、53歳で死去した。検視官は、拡張型心筋症などによる自然死だとした。死後、彼が生前に匿名で慈善活動を重ねていたことが明らかになり、不妊治療のための寄付などが知られるようになった。
同じ年に亡くなった人物
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