伝記
ピティリム・ソローキンは、1889年1月21日にロシア帝国のヴォログダ県の小さな村トゥリャで生まれ、のちにアメリカで活躍した社会学者である。犯罪学や政治にも関わり、ハーバード大学の社会学部を創設した。父は金銀細工を専門とする旅職人で、母はロシア北方のコミ人の農家の出だった。三人兄弟の次男で、兄のヴァシーリーは1885年、弟のプロコピーは1893年の生まれである。幼少期はコミ人の間で過ごし、宗教的、道徳的な教育を受けた。母を幼くして失った後、父、兄のヴァシーリーとともに、仕事を求めて町を転々とした。父はアルコール依存症となり、息子たちに暴力をふるうようになったという。唇に傷が残るほどの暴力を受けたのち、11歳の彼は兄とともに、父のもとを離れて独立することを決意した。一方で、3歳で母を、11歳で父を亡くしたため、兄とともに村を出たともいわれる。いずれにせよ二人は旅職人として生計を立て、小さな町ヤレンスクに落ち着いた。
奨学金を得て小学校の高等科に入り、師範学校に進んだが、1906年に17歳で政治活動の嫌疑により逮捕され、卒業はできなかった。皇帝に反対する立場にあり、さらに2回逮捕された。首都ペテルブルクに出て、職人や事務員として生計を立てながら、夜間学校や心理神経科学校を経て、サンクトペテルブルク大学に入学した。大学では社会学を学び、卒業後は同大学の教授となった。皇帝を支持する保守派によって投獄された経験が、犯罪学と刑罰学を専攻するきっかけになったという。1910年にトルストイが亡くなった時には、深い衝撃を受け、2年後に論文でトルストイの宗教的、道徳的な教えを再構成した。
ロシア革命では、社会革命党の党員として活躍し、憲法制定議会の議員となり、ケレンスキー臨時政府の補佐官も務めた。しかし十月革命でレーニンの独裁路線を批判したために逮捕され、死刑を宣告された。マサリクやベネシュら友人の介入で、刑が永久追放に減刑され、チェコスロバキアへ逃れたともされる。彼は白軍の運動の支持者でもあり、新政権から何度も逮捕されていた。数週間の獄中生活ののちに特赦され、サンクトペテルブルク大学の教授に戻り、社会学部を創設した。やがてレーニンが権力を固めると、赤軍に追われるようになった。1922年の動きについては、ソ連政府に逮捕されて追放されたとも、数か月間潜伏して国外に逃れたともいわれる。
1922年にアメリカに亡命し、1924年から1929年までミネソタ大学の社会学教授を務めた。1930年にアメリカの市民権を得て帰化し、同年、ハーバード大学に新設された社会学部の初代教授となって、1959年まで勤務した。ソ連の共産主義に否定的で、ナチズムとコミュニズムを同一水準で批判した。共産主義を疫病または害虫のようなものだとみなしたが、当時はその考えは理解されなかった。ハーバードでは、同僚のタルコット・パーソンズが無断で自分の作品を借用したと批判した。門下からは、ロバート・キング・マートンなどが生まれた。ハーバード大学の学長に直接請われて、同大学に迎えられたという。著作は都市、文化、社会学理論など社会学全般に及び、1968年2月11日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ウーゴ・フリジェリオ (1968年没)
- ドロシー・ギッシュ (1968年没)
- レオ・ヒューバーマン (1968年没)
- ゲルダ・マウルス (1968年没)
- トミー・ヌーナン (1968年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・ジョージ・トランプ (1985年没)
- ジョン・アダムズ (1826年没)
- マーティン・フェルドシュタイン (2019年没)
- ジャルマチ・オルガ (2013年没)
- ジャック・シャーキー (1994年没)