伝記
フィリッポ・リッピは、ルネサンス中期のイタリアの画家で、元修道士である。ボッティチェリの師でもあり、フラ・アンジェリコとともに15世紀前半のフィレンツェ派を代表する画家とされる。フラ・アンジェリコが敬虔な修道士であったのとは対照的に、修道女と駆け落ちするなど奔放な生活を送ったことで知られる。
1406年、フィレンツェの下町で肉屋トンマーゾ・ディ・リッポの子として生まれた。生年については確かな記録がない。母アントニアは出産で亡くなったとされ、幼くして孤児となった。2歳のころに兄弟とともに父方の叔母に預けられ、8歳になった1414年、兄弟とともに近くのカルメル会修道院に入れられて育ち、のちに修道士となった。幼少期から周囲の手を焼かせる勉強嫌いの腕白な性分で、彼を育てた修道士は絵の道に進ませようと画策したという。1424年には、マゾリーノとマサッチオによるブランカッチ礼拝堂の装飾を目にし、これが画家としての志を決めるうえで重要な役割を果たしたとされる。ドナテッロやルカ・デッラ・ロッビアらの彫刻にも触れた。絵画の師はロレンツォ・モナコとされるが、夭折した先輩画家マサッチオの作品からも影響を受けている。マサッチオは、リッピが所属していたカルミネ派の教会に代表作『貢の銭』などの壁画を描いていた。1428年にはシエナのカルメル会修道院の副院長に任じられ、1430年に修道院の記録が初めて彼を「画家」と記した。
1434年にはパドヴァで、サンタントーニオ聖堂の聖遺物の聖櫃を描くために群青を受け取った記録がある。パドヴァではフランドル絵画とヴェネツィアの色彩に触れたとされる。1437年にフィレンツェへ戻って自分の工房を開き、1438年には、ドメニコ・ヴェネツィアーノがピエロ・デ・メディチにあてた書簡で、フラ・アンジェリコと並ぶ市内で最良の芸術家と評された。同じ年にメディチ家に仕えるようになった。1439年からは修道院に住まず、自分の家を持って修道士らしからぬ生活を送っていたと見られ、教会の聖職禄を取り上げられた。それでも、コジモ・デ・メディチとその子ピエロの援助を受け、宗教当局から放縦とみなされた暮らしが不問にされる助けとなった。
初期の作品にはゴシック風の堅さがあったが、やがてマサッチオ風の現実感ある空間と人体の表現が現れ、のちにはフランドル絵画にも関心を広げていった。聖母像などに見られる甘美な女性像はリッピの特色である。
1452年、フィレンツェの北西約20キロにあるプラートの大聖堂の壁画制作を委嘱され、1464年ごろまでこの仕事に携わった。洗礼者ヨハネ伝と聖ステファノ伝を主題とするこの壁画は現存し、代表作と見なされている。制作期間中の1456年にはプラートで礼拝堂付き司祭に任命された。同じ年、サンタ・マルゲリータ修道院の当時23歳の修道女ルクレツィア・ブティを祭礼の混雑にまぎれて誘い出し、自宅に連れ去った。1457年ごろには2人の間に息子フィリッピーノ・リッピが生まれている。リッピは告発され、修道院への出入りを禁じられたが、芸術家に援助を惜しまなかったコジモ・デ・メディチの取り成しにより、教皇から正式に還俗を許され、2人は正式な夫婦となった。リッピの描く聖母マリアやサロメのモデルはルクレツィアだとされる。1467年、壁画制作のため妻子を連れてイタリア中部のスポレートに移り住み、2年後の1469年、壁画の完成を見ずに同地で没した。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・ウッドヴィル (初代リヴァーズ伯爵) (1469年没)
- モクテスマ1世 (1469年没)
- アントニオ・フィラレーテ (1469年)
- マルグリット・ド・ブルターニュ (1469年没)
- 睿宗 (朝鮮王) (1469年没)
同じ地域に関係する人物
- バルトールス・デ・サクソフェラート (1357年没)
- マルティヌス4世 (ローマ教皇) (1285年没)
- クラウス・フーバー (2017年没)
- ポンターノ (1503年没)
- フォリーニョのアンジェラ (1300年代没)