HISTORICAL PERSON · 1967年没

エドワード・ホワイト

1965年にアメリカ人として初めて宇宙遊泳を行った、空軍将校の宇宙飛行士。アポロ1号の訓練中の事故で亡くなり、死後に宇宙名誉勲章を授与された。

生涯
1967年没
死亡地
アメリカ合衆国(フロリダ州 / ケープカナベラル空軍基地第34複合発射施設)
出生地
アメリカ合衆国(サン・アントニオ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(フロリダ州)

伝記

エドワード・ヒギンズ・ホワイト2世は、1930年11月14日、テキサス州サンアントニオに、のちに空軍少将となる陸軍士官学校出身のエドワード・ホワイトと妻メアリー・ロジーナの子として生まれたアメリカの宇宙飛行士である。弟のジェームズと姉のジーンがいた。父の仕事の関係で、一家は各地の軍の基地を転々とし、オハイオ州デイトンの中学校や、ワシントンの高校に通った。航空への関心は十二歳のとき、父に練習機に乗せてもらったことで芽生えたという。ボーイスカウトにも入り、二級スカウトの階級を得ている。

1948年に高校を卒業すると、父と同じ陸軍士官学校への入学を望んだ。しかし入学には連邦議会議員の推薦が必要で、一家は一か所に長く住んでいなかったため、高校の校長から得た推薦状を手に、議事堂で議員たちの部屋を訪ね歩いた。最終的にオクラホマ州の議員から推薦を得て、7月15日に入学した。髪の色から「レッド」と呼ばれた。在学中は、1952年のオリンピック代表の座をめざして四百メートル障害の予選に挑み、0.4秒差で出場を逃した。サッカー部ではハーフバックを務め、趣味はスカッシュやハンドボール、水泳、ゴルフ、写真だった。同級生には、のちに同じ宇宙飛行士となるマイケル・コリンズがいた。

1952年に士官学校を523人中128位で卒業し、空軍の少尉に任官した。1953年に操縦士の資格を得て、2月には士官学校のフットボールの試合で知り合ったパトリシア・フィネガンと結婚し、息子のエドワード3世と娘のボニー・リンが生まれた。西ドイツのビットブルク基地の部隊で、三年半、F-86とF-100の戦闘機を操った。同僚には、士官学校で一年先輩だったバズ・オルドリンもいた。1957年に未来の宇宙飛行士についての記事を読み、自分もなろうと決めた。高い学位が選ばれる可能性を高めると考えて、1958年に空軍の支援でミシガン大学に入って航空工学を学び、1959年に修士号を取得した。続いて試験パイロット学校に学び、航空システム部門の試験パイロットとなり、三千時間以上を飛んだ。

1962年、「次の9人」と呼ばれる第2期の宇宙飛行士に選ばれた。ジェミニ4号のパイロットとして、ジェームズ・マクディヴィット船長とともに、1965年6月3日、アメリカ人で初めて宇宙遊泳を行った。船外活動の最中に、予備の耐熱グローブが船外へ出て行ってしまい、いまもスペースデブリとなっている。この飛行で航空宇宙局の功労勲章を授与された。アポロ司令船の飛行システムの専門家でもあり、1966年にアポロ1号の司令船パイロットとなった。ジェミニ10号の船長を務める予定だったが、昇進によりこちらに回った。

1967年1月27日、フロリダ州ケネディ宇宙センターで行われたアポロ1号の訓練中の火災に巻き込まれ、ガス・グリソム、ロジャー・チャフィーとともに死亡した。ウェスト・ポイントの墓地に葬られ、1997年に議会宇宙名誉勲章を追贈された。2009年7月には「航空の殿堂」入りした。1967年9月には、アメリカ人初の宇宙遊泳を記念する切手が発売された。デザインが二枚に分割された切手が出されたのは初めてだった。各地に彼の名を冠した学校がある。

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