伝記
エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナは、1928年6月14日にアルゼンチン第三の都市ロサリオで生まれ、1967年10月9日に没した、アルゼンチン生まれの政治家、革命家、キューバのゲリラ指導者である。「チェ・ゲバラ」の呼び名で知られる。「チェ」は、アルゼンチンやウルグアイなどで使われる、「やぁ」「おい」といった親しみを込めた砕けた呼びかけの言葉で、ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」とあいさつしたことから、キューバ人がその発音を面白がって付けたあだ名だという。
バスク系とアイルランド系の両親のもとに生まれた。父はエドゥアルド・ゲバラ・リンチ、母はセリア・デ・ラ・セルナで、母は1824年にアヤクーチョでボリーバルらと戦ったペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナの末裔である。経済的に恵まれた家庭であり、両親は保守的な慣習にとらわれない、比較的リベラルな考えの持ち主で、母セリアは無神論者でもあった。ゲバラは未熟児として生まれて肺炎を患い、2歳のとき重い喘息と診断された。両親は治療に良い環境を求めて何度か転居した。幼いころは発作で命の危機に陥ることがあり、そのたびに酸素吸入器で回復したが、ラグビーなど激しいスポーツを愛好し、試合の最中に発作を起こしては吸入器を使い、また試合に戻ったという。重い喘息は生涯彼を苦しめた。
ブエノスアイレス大学で医学を学び、在学中の1951年に、年上の友人アルベルト・グラナードとオートバイで南アメリカを巡る旅をした。チリの鉱山労働者やペルーのハンセン病患者との出会いを通じ、アルゼンチン以外の南米各地の状況を見聞して、マリアテギの著書の影響でマルクス主義に共感するようになった。この旅は『モーターサイクル南米旅行日記』に記され、後に映画にもなった。1953年、大学卒業の25日後に再び南米を旅し、ボリビア革命のさなかのボリビアで、虐げられてきたインディオが解放されたと感じて、大きな衝撃を受けた。その後、グアテマラにたどり着き、ペルーを追われた女性活動家イルダ・ガデアと出会い、社会主義に目覚めて、彼女と結婚した。アルベンス政権が、アメリカの後押しを受けた反抗勢力に倒されると、ゲバラが「ラテンアメリカで最も自由で民主的な国」と評した革命政権は崩壊した。この出来事が直接のきっかけで、ゲバラは武力による革命を本気で志すようになったという。
暗殺指令が出されたため、妻とメキシコへ移り、1955年7月にフィデル・カストロと出会った。カストロに共感して、一夜にして武装闘争への参加を決意したとされる。1956年11月25日、反乱軍の総勢82名が小型船「グランマ号」に乗り込み、キューバに上陸したが、政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となり、生き残ったのは、ゲバラ、カストロ兄弟、シエンフエゴスら12人のみだった。シエラ・マエストラ山脈に潜伏して部隊を立て直す中で、当初は軍医だったゲバラは、ラジオ局を設立し、その忍耐強さと誠実さ、冷静な判断で、反乱軍のリーダーの一人と認められた。上陸から1年後には第2軍の司令官に任命され、カストロに次ぐ反乱軍のナンバー2となった。1958年12月29日に、300人を率いて、政府軍6000人が守る第2の都市サンタ・クララに突入し、装甲列車を転覆させて制圧した。1959年1月1日にバティスタが亡命し、8日にカストロがハバナに入って、キューバ革命が達成された。同年6月には、特使としてアラブ連合やインドなどを訪ね、7月に日本を訪れて、砂糖の売り込みのため政府の要人と会談した。11月には国立銀行総裁に就任している。
同じ年に亡くなった人物
- ミシャ・オウア (1967年没)
- フランシス・ウィメット (1967年没)
- オーヴェ・アンデルセン (1967年没)
- リヒャルト・クーン (1967年没)
- バーバラ・ペイトン (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- ウゴ・バンセル・スアレス (2002年没)
- フアン・ペレーダ・アスブン (2012年没)
- ホセ・ミゲル・デ・ベラスコ (1859年没)