伝記
ジャン・アルプは、ドイツ名をハンス・アルプといい、1886年9月16日、現在のフランスのアルザス地方の首府ストラスブール(シュトラースブルク)に生まれた彫刻家・画家・詩人である。父ユルゲンはドイツ人で葉巻の製造業を営み、母ジョゼフィーヌはフランスの文化のもとで育ったアルザス人だった。当時のアルザスは普仏戦争の結果ドイツ領で、ドイツ語とフランス語の両方を母語とし、家庭ではアルザス語も話して育った。幼い頃から絵を描くことを好み、造形芸術と詩に強い興味を持ち、両親からも熱心に支援された。
1901年にストラスブールの美術工芸学校に入ったが、伝統的な美術教育に拒否反応を示し、新しい表現を探してパリの美術館を巡り、詩作を続けた。のちドイツのヴァイマルの美術学校に通い、1908年ごろにはパリのアカデミー・ジュリアンなどで学んだが、いずれにも満足できず、父の工場の移転にともない、スイスのルツェルン近郊に移っていた実家に戻った。1911年にはスイスの同世代の作家たちと「近代同盟」というグループを立ち上げて展覧会を開き、翌1912年には青騎士の展覧会にも参加した。その後数年は方向を探るようにパリやケルン、ミュンヘンをまわり、カンディンスキー、クレー、ピカソ、エルンスト、モディリアーニら多くの芸術家と交流した。1915年にはスイス人芸術家のゾフィー・トイバーと出会い、木や紙、布を使った幾何学的なコラージュを共同で制作するようになった。この出会いは、彼の方向を定める重要なものだった。
第一次世界大戦を避けてチューリヒに落ち着くと、1916年にトリスタン・ツァラらとダダの運動を始めた。戦争と既存の美的規範に反抗するこの運動の中心人物として、さらに多くの芸術家と交わった。1917年には彫刻を始めている。1922年10月にゾフィーと結婚し、スイス国籍の取得を試みたが、ダダやシュルレアリスム的な活動を問題視されて拒まれ、フランスに戻って1926年にフランス国籍を取った。1927年にパリのシュルレアリストの画廊で最初の個展が開かれたころから、有機的な不定形をもつ「具象彫刻」の制作が始まった。夫妻はパリ郊外のクラマールに、ゾフィー自身が設計した家と画室を建てた。
第二次世界大戦が勃発すると、パリを脱出してアメリカへの移住を計画したが、結局スイスへ逃れた。1943年1月12日の夜、就寝中だったゾフィーが、故障したストーブから出た一酸化炭素で亡くなった。深刻な鬱に陥ったアルプは、修道院に引きこもり、四年間、詩作だけで妻を弔って過ごした。長年の友人で収集家のマルゲリーテ・ハーゲンバッハの支援で制作を再開し、1959年に彼女と結婚した。戦後は各地で個展が開かれ、1954年にヴェネツィア・ビエンナーレの彫刻部門賞、1963年にフランス芸術大賞を受け、名声は揺るぎないものとなった。1940年以降は自ら「ジャン・アルプ」と名乗り、現在もドイツ語圏では「ハンス」、フランス語圏では「ジャン」と呼ばれる。身近な自然物から独自の形を抽出して「オブジェ言語」と称し、髭やへそ、唇のような人体の一部を、瓶や帽子のような日用品と等価に配置した。そこには皮肉とユーモアがあった。著作を集成した『摘みとられた日々』を準備したのち、1966年にスイスのバーゼルで死去した。2007年にはドイツのボン近郊に、夫妻の約四百点の作品を収めるアルプ美術館が開かれた。
同じ年に亡くなった人物
- オットー・フォン・クノーベルスドルフ (1966年没)
- ヴワディスワフ・ボルトノフスキ (1966年没)
- ヴィーラント・ワーグナー (1966年没)
- ガスパール・カサド (1966年没)
- ヴィクトル・ブローネル (1966年没)
同じ地域に関係する人物
- Paul Barth (1974年没)
- タデウシュ・ライヒスタイン (1996年没)
- ヘルマン・ケステン (1996年没)
- ゼバスティアン・ミュンスター (1552年没)
- Vace Zela (2014年没)