伝記
ザーヒル・ジャクマクは、エジプトを支配したブルジー・マムルーク朝のスルタンである。1373年とも1378年ともいわれる年に生まれた。チェルケス人の出身で、兄に連れられてエジプトに来て、スルタンのバルクークの時代に、アタベクのイナール・ユースフィーに売られた。その後、カイロの城塞で訓練を受け、スルタンの親衛隊に加わった。さらにスルタンのナースィル・ファラジュのもとで、酌人を務めた。ブルジー・マムルーク朝の初代スルタンであるバルクークに仕えたマムルークで、バルクークの死後も、歴代のスルタンに仕えた。
1418年から1420年には、ムアイヤド・シャイフのもとでダマスカスの総督となり、ハーン・ジャクマクを建てた。その後は、カイロの城塞の総督を務め、バルスバーイの時代にはアタベクとなって、アナトリアのドゥルカディル侯国の反乱を鎮める遠征を率いた。バルスバーイの信頼を得て、その息子のアズィーズ・ユースフの後見人となった。1438年にバルスバーイが亡くなり、息子のユースフが、まだ15歳で王座を継いだ。ジャクマクは陰謀を企ててユースフを退け、自らスルタンに即位した。このとき、すでに60代半ばだったという。
即位すると、アミールのコルクマズ・シャアバーニーが反乱を起こしたが、ジャクマクは、自分の支持者にも、コルクマズの支持者にも金を配り、コルクマズは見捨てられた。ジャクマクは彼を捕らえ、アレクサンドリアで処刑した。バルスバーイの治世は統制が厳しすぎたこともあって、その死後に地方で反乱が起こっていた。ジャクマクはこれらの反乱を鎮めたが、地方や配下のマムルークたちに大幅に特権を与え、官職の売買も行ったため、賄賂が横行し、統制が弛緩した。一方で、バルスバーイの時代に敵対したティムール朝とは和睦した。1439年には、キプロス王国とロードス島の聖ヨハネ騎士団の海賊行為に対して、この2つの島に遠征したが、成果はあまりなかった。1442年に2度目の失敗をすると、艦隊を築き、1444年7月に出航させた。ロードス島の村々は破壊されたが、要塞は持ちこたえ、艦隊の司令官は包囲を断念した。ティムールの後継者シャー・ルフが、カーバ神殿の覆いを送りたいと求めると、ジャクマクは最初は断り、のちに世論の反対を押し切って受け入れた。使節を迎えたとき、石が投げつけられたが、ジャクマクは騒ぎを鎮めて、使節をメッカへ行かせた。晩年にはギザで黒人奴隷が反乱を起こし、1448年には、先代の息子アズィーズ・ユースフによって一時的に廃されるなど、王朝は混乱した。
ジャクマクは、1453年に亡くなった。息子のマンスール・ウスマーンを後継者に指名していたが、配下のマムルークたちが反発し、アシュラフ・イーナールを擁立したため、世襲はならなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ (1453年没)
- Orkhan (1453年没)
- シディ・ブーシャキ (1453年)
- Giorgio de' Buondelmonti (1453年)
- アルバロ・デ・ルナ (1453年没)
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