伝記
ウルグ・ベクは、1394年3月22日にスルターニーヤで生まれたティムール朝の君主で、ティムールの四男シャー・ルフの長男にあたる。幼名はムハンマド・タラガイといったが、ティムールの意向でテュルクの言葉で「偉大な指揮官」を意味する「ウルグ・ベク」に改名された。これはティムール自身の称号と同じ意味であり、祖父は孫に大きな期待をかけていたと考えられている。幼少期は祖父の第一の正室サラーイ・ムルクのもとで養育され、1404年には従姉妹のエケ・ベグムとの結婚が取り決められた。同年夏、サマルカンド郊外の牧草地で開かれた結婚式は2か月に及んだといわれる。ティムールの中国遠征にも従軍している。
ティムールの死後の内戦では、シャー・ルフの部下とともにバルフ近郊のアンドゥフドの統治を命じられ、13歳のときにはホラーサーン地方の一部とマーザンダラーンの総督に任じられた。1409年に王位継承戦を制したシャー・ルフがサマルカンドを制圧すると、ウルグ・ベクはその知事に任じられ、これがサマルカンドに成立した地方政権の始まりで、支配は40年近くに及んだ。父の指示に従いつつ独自の政策も行ったが、詳細は不明な点が多い。この時代には新しい貨幣が鋳造されて商業が栄え、ティムール時代と同じく自由で享楽的な空気が流れていたという。
対外的には、ジョチ・ウルスの王族バラクやモグーリスタン・ハン国のシール・ムハンマドを援助して間接支配を図ったが、二人は従わなくなった。ウルグ・ベクは1425年にモグーリスタンへ遠征してモグール軍に勝利し、天山山中のユルドゥズ草原に達した。しかし1427年に父の援軍とともに北方のウズベク族の討伐に向かって敗れ、シャー・ルフは一時サマルカンドの統治権の没収を考えるほど落胆したといわれる。以後、ウルグ・ベクは対外政策に消極的になった。
チンギス家の血を引かない彼は、チンギス裔の人物を傀儡のハンに立てて命令を発し、チンギス家の王女たちとの婚姻で血統を強めた。祖父にならって「キュレゲン(娘婿)」の称号を用い、貨幣にもその称号を刻ませた。サマルカンドやブハラにマドラサを建て、寄進された土地の収益で運営させ、ティムールが着工したグーリ・アミール廟も彼の時代に完成した。明にもたびたび使節を送り、1439年に贈った良馬は英宗に気に入られたという。学術ではカディーザーデ・ルーミーやアル=カーシーらの学者集団を率い、1420年ごろ完成した天文台で観測を行った。その成果は天文表にまとめられ、1,018の恒星が記録され、うち約900は実際の観測に基づくとされる。この表はケプラーの時代まで重んじられ、1665年にトーマス・ハイドによってヨーロッパで初めて出版された。彼は狩猟を好み、日時と場所と獲物を書き残していたが、部下が記録を失くした際に数年分を口述して作り直させたところ、後に見つかった原簿と違うのは数か所だけだったと伝えられる。
1447年にシャー・ルフが没すると各地で王族の反乱が起こり、彼は甥のアラー・ウッダウラと戦ってマシュハドを占領したが、その留守にサマルカンドがウズベクに襲われた。占いで自分の息子に殺されるとの結果が出て長子アブドゥッラティーフを遠ざけたとされ、その息子が反乱を起こし、1449年秋、迎撃に出た彼は敗れた。メッカ巡礼を願い出て許されたものの、サマルカンドを発った後、アブドゥッラティーフの派遣した刺客に55歳で殺害された。統治者としてより学者として高く評価され、生誕600周年の1994年は「ウルグ・ベクの年」に指定された。
同じ年に亡くなった人物
- Huma Hatun (1449年)
- ペドロ・デ・ポルトゥガル (コインブラ公) (1449年没)
- ルートヴィヒ4世 (プファルツ選帝侯) (1449年没)
- イブン・ハジャル・アスカラーニー (1449年没)
- Konrad von Erlichshausen (1449年)
同じ地域に関係する人物
- クレイトス (紀元前328年没)
- Shams al-Din al-Samarqandi (1310年没)
- ジャハーンギール (ティムール朝) (1376年没)
- ムハンマド・アル=ブハーリー (870年没)
- アダビア・エフェンディエバ (1944年没)