伝記
コール・アルバート・ポーターは、1891年6月9日にアメリカ・インディアナ州ペルーで生まれた作曲家、作詞家である。資産家の一人息子で、父サミュエル・フェンウィック・ポーターは薬剤師、母ケイトは「インディアナで最も裕福な男」といわれた石炭・木材の投機家J・O・コールの娘であった。気丈な母に溺愛され、早くから音楽の手ほどきを受けて、6歳でヴァイオリン、8歳でピアノを習い、10歳のときには母の助けを借りて最初のオペレッタを書いた。母は、彼を早熟に見せようと、記録上の生年を1891年から1893年に書き換えたという。祖父のコールは孫を弁護士にしたがり、1905年にマサチューセッツ州のウースター・アカデミーに入学させた。ポーターはそこにアップライトピアノを持ち込み、音楽と人を楽しませる才能で友人を作った。首席で卒業し、褒美に祖父からフランス、スイス、ドイツの旅をもらっている。
1909年にイェール大学に入り、英語を専攻し、音楽を副専攻とした。在学中に300曲を作ったといい、大学公式の応援歌「ブルドッグ」もそのひとつで、ラグビーのタッチダウンが決まった時に歌われる。ニューヨークの夜の街にも通った。卒業後、1913年にハーバード大学の法科大学院に進み、のちの国務長官ディーン・アチソンと同室になったが、まもなく弁護士に向いていないと感じ、学部長の勧めで音楽学科に移った。母はこれに反対しなかったが、祖父にはこの転向を秘密にしていた。1915年にブロードウェイのレビュー『ハンズ・アップ』に楽曲を提供して、本格的な作曲家としての活動を始めたが、翌1916年に手がけた最初の上演作品『まずアメリカを見よ』は、2週間で打ち切られる挫折を味わった。
その後パリに渡り、1918年にリンダ・リー・トーマスと出会った。コールは自分が同性愛者であることを告白したが、リンダは結婚に応じたという。ヨーロッパでも作曲を続け、1923年にバレエ曲「ウィズイン・ザ・クオータ」を作曲したが、成功には恵まれず、1920年代後半に帰国した。1930年のミュージカル『ザ・ニューヨーカーズ』で「ラブ・フォー・セール」などを提供したが、歌詞が物議をかもして放送禁止となった。この曲は、後年スタンダード・ナンバーとなった。1932年のミュージカル『陽気な離婚』が大ヒットし、フレッド・アステアが歌った「夜も昼も」は代表曲の一つとなる。1934年の『エニシング・ゴーズ』、1935年の『ジュビリー』、1938年の『リーヴ・イット・トゥ・ミー』と続け、1936年には映画『踊るアメリカ艦隊』に「イージー・トゥ・ラヴ」などを提供して、映画音楽にも進出した。
作曲だけでなく作詞も自らが手がけるところが、多くの作曲家と違った。1940年代前半の作品には長く残る曲が少なかったが、1948年のミュージカル『キス・ミー・ケイト』が大ヒットして華々しく復活し、トニー賞を受賞した。落馬の負傷が元で右足に潰瘍ができ、手術を繰り返した末に切断して義足をつけたが、その後も多くの曲を作った。1964年10月15日、腎不全のためカリフォルニア州サンタモニカで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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