伝記
エミリオ・アギナルドは、1869年3月22日にスペイン領フィリピンのカウィット(現在のカヴィテ州)で生まれた革命家で、フィリピン第一共和国の初代大統領である。中国系メスティーソの弁護士で、カウィット町長も務めたカルロス・アギナルドと妻トリニダードの四男であった。小学校を卒業してマニラの高校に進んだが、1882年にコレラのため高校が閉鎖されると、復学せずに13歳で学校教育を終えた。父がすでに亡くなっていたため母の事業を手伝い、次兄ベニグノが病死すると、年齢制限の特例が認められて、17歳でバランガイの首長を引き継いだ。1895年には25歳で、長兄クリスプロが務めていた町長の職を継ぎ、翌1896年1月にヒラリアと結婚している。
スペインによる重税と重労働にフィリピン人が苦しむなか、1892年にアンドレス・ボニファシオらが秘密結社カティプナンを結成していた。アギナルドは、ホセ・リサールら留学経験のある独立派の知識人が加わるフリーメーソンのイムスのロッジに参加し、1895年3月にマニラでボニファシオと出会って、その場でカティプナンに入会した。1896年8月に陰謀が報じられ、スペイン当局が検挙に動くと、ボニファシオが先に蜂起を宣言した。アギナルドは8月31日に独自の「カヴィテの叫び」を発し、独自の軍を組織して、9月のイムスの戦いと11月のビナヤカンの戦いでスペイン軍に勝ち、カヴィテ州を解放した。
1897年に入ると、本国から4万人の増派を受けたスペイン軍の反攻が進み、3月の戦いで兄クリスプロが戦死した。アギナルドは拠点のイムスを撤退し、5月にはナイクでの総攻撃から副官の進言で脱出して、徒歩でマラゴンドンへ敗走した。同じ頃、カティプナンの内紛が起こり、アギナルドは、グレゴリオ・デル・ピラールらの進言を受け入れて、ボニファシオを銃殺刑に処し、指導権を握った。やがてピアクナバトに到達し、同年11月に共和国を樹立して自ら大統領を名乗った。12月14日にスペインと和平協定を結んで補償金を得ると、26人の同志とともに香港へ亡命した。
1898年2月に米西戦争が始まると、アギナルドは香港やシンガポールでアメリカ側と接触し、アメリカ海軍がフィリピンの独立を支持するという返答を、文書にしないことを条件に受け取った。5月1日のマニラ湾海戦でアメリカ海軍がスペイン艦隊を全滅させると、19日にフィリピンへ帰還し、24日に革命の再開を宣言した。6月12日にカウィットの自宅で各国の代表やジャーナリストを招いて独立を宣言し、この日は今もフィリピンの独立記念日とされる。この時に作曲された「フィリピン行進曲」は国歌に採用された。しかし8月13日にアメリカ軍が単独でマニラに入城し、スペインがアメリカにだけ降伏すると、両者の関係は悪化した。12月のパリ条約でスペインはフィリピンをアメリカに譲渡した。それでも1899年1月21日にマロロス憲法を公布して共和国を樹立し、23日に初代大統領に就任したが、2月に米比戦争が始まった。
敗北を重ねた革命軍は、内部の分裂のなか、1899年11月にゲリラ戦へ転換したが、1901年3月にアギナルドは捕虜となり、アメリカ軍の軍政長官に忠誠を誓って、全軍に休戦を指示した。戦争は2年1か月に及び、フィリピン非戦闘員の犠牲者は20万人にのぼったとされる。釈放後は郷里のカウィットに戻り、元兵士の生活支援をしつつ、農業と年金を中心とした長い引退生活を送った。1964年2月6日に死去した。
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