伝記
マソリーノ(マゾリーノとも)は、イタリアのルネサンス期の画家で、ゴシックとルネサンスの過渡期に位置する人物である。本名はトンマーソ・ディ・クリストファノ・フィーニといい、画家としては通称のマソリーノ・ダ・パニカーレの名で呼ばれる。1383年に、パニカーレで生まれたとされる。同時代のマサッチオの革新性とは対照的に、その作風は「国際ゴシック様式」の流れをくんでいる。
最初の40年ほどの生涯は、はっきりしない。生まれた場所も議論があり、ヴァザーリは「ヴァルデルサのパニカーレ」とするが、そのような地名の場所は見つかっていない。ウンブリア地方の研究者は、ウンブリアのパニカーレで生まれたと主張する。父クリストファノ・フィーニは、ヴァザーリが「画家」と記した人物で、長く息子のそばにいて、家賃や契約書、税の申告、組合への登録など、あらゆる手続きを引き受けた。修業については、ゲラルド・スタルニーナの工房で学び、のちに彫刻家ロレンツォ・ギベルティ(フィレンツェの洗礼堂「天国の扉」の作者)のもとにも出入りしたとされ、1403年から1407年ごろ、ギベルティの助手の1人だったと思われる。確かな情報は1422年に始まり、この年フィレンツェに移って家を借りた。翌1423年、40歳のとき、医者・薬種商の組合に画家として登録した。マサッチオは、その1年前の1422年に加わっていた。ブレーメンにある『聖母子』は、この時期の作で、台座に2つの家の紋章と1423年の年記がある。
1424年、フェリーチェ・ブランカッチの注文を受け、マソリーノはフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂のブランカッチ礼拝堂の壁画を、マサッチオとともに描き始めた。マソリーノは1425年から1427年ごろまでハンガリーに滞在したため、制作は中断されたが、1427年に再開した。マサッチオは1428年、27歳の若さで早世した。その後、マソリーノはフィレンツェを足場に、ローマや北イタリアでも制作した。1435年には、ブランダ・ダ・カスティリオーネ枢機卿の注文で、北イタリアのカスティリオーネ・オローナの洗礼堂に、『洗礼者ヨハネ伝』の連作壁画を描いた。『ヘロデの宴』と『キリストの洗礼』が代表作として知られる。
これらの作品は、18歳年下で、共同制作も多かったマサッチオの作品のような革新性には欠け、遠近法の応用にもややぎごちなさがある。しかし、平明な構図と温和な色彩が醸し出す静かで叙情的な画面には、見るべきものがある。『受胎告知』(ワシントンのナショナル・ギャラリー)や『謙譲の聖母』(ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク)も知られている。フィレンツェの大聖堂に残る、1440年の年記のある故人名簿にマソリーノの名があることから、この年までには亡くなっていたと思われる。1447年ごろに亡くなったとする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・シルトベルガー (1440年)
- オルデンブルク伯ディートリヒ (1440年)
- チェンニーノ・チェンニーニ (1440年)
- フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯) (1440年没)
- ロレンツォ (1440年)
同じ地域に関係する人物
- カロリーヌ・ボナパルト (1839年没)
- フランチェスコ・ランディーニ (1397年没)
- コジモ3世 (1723年没)
- Marco da Gagliano (1643年没)
- ミュリエル・スパーク (2006年没)