HISTORICAL PERSON · 1963年没

パウル・ヒンデミット

ドイツの作曲家・指揮者・ヴィオラ奏者。ロマン派からの脱却を目指して新即物主義を推進し、生涯に600曲以上を作曲した。

生涯
1963年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ヘッセン州 / フランクフルト・アム・マイン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハーナウ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ヘッセン州)

伝記

パウル・ヒンデミットは、1895年11月16日にドイツのハーナウで生まれた作曲家・指揮者・ヴィオラ奏者である。ヴァイオリンやクラリネット、ピアノなど様々な楽器を弾きこなす多才な演奏家でもあり、生涯に600曲以上を作曲した。父はシレジアの出身の職人で、芸術家を志したが成功しなかったため、自らの夢を子どもたちに託し、パウルと弟ルドルフ、妹トーニーに厳格な音楽教育を施した。1908年にフランクフルトのホッホ音楽院に入ってヴァイオリンを学び、作曲と対位法はアルノルト・メンデルスゾーンらに学んだ。父は子どもたちで弦楽三重奏団を組ませて演奏させた。

1913年に劇場の管弦楽団のヴァイオリン奏者として音楽家の経歴を始め、生計のためにコーヒーハウスやダンスホール、映画館で働くこともあった。20歳でフランクフルト・ムゼウム管弦楽団のコンサートマスターを務め、1915年からは師アドルフ・レーブナーの弦楽四重奏団でヴィオラを弾いた。第一次世界大戦では父が戦死し、ヒンデミット自身も1918年に従軍した。この時期の曲の大部分は、生前には出版されなかった。戦後はヴィオラのソロ奏者として活動するとともに、多くの曲を書いた。1920年に結成したアマール弦楽四重奏団は8年間活動し、1921年の第1回ドナウエッシンゲン室内音楽祭で、弦楽四重奏曲第3番を初演している。1924年には、フランクフルト歌劇場の主席指揮者ルートヴィヒ・ロッテンベルクの娘ゲルトルートと結婚した。1927年にベルリンへ移り、音楽大学の作曲科の教授を務めた。ヴァイオリンのヨーゼフ・ヴォルフスタール、チェロのエマヌエル・フォイアーマンと結成した三重奏団は有名で、オペラや映画音楽、電子楽器トラウトニウムのための音楽まで幅広い作曲を手がけた。ロマン派の作曲家からは進歩的すぎ、前衛の作曲家からは穏健で順応的すぎると批判される一方で、ダリウス・ミヨーやストラヴィンスキーらと知り合い、国際的に有名になった。

ナチス・ドイツの時代の初めには、評価は揺れていた。帝国音楽院の顧問でありながら、ユダヤ人の奏者と三重奏を組んで録音するなどしたため、ナチスの反感を買った。1934年にフルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が交響曲『画家マティス』を初演して大成功したが、同年10月にナチスの機関紙が彼を「堕落の旗手」として非難しはじめ、12月にはゲッベルスから「無調の騒音作家」と呼ばれた。1936年には公式に作品の演奏が禁止され、1938年の退廃音楽展でも批判された。この間の1935年には、トルコ政府の依頼で音楽教育の編成に携わり、アンカラ音楽院の開校に力を尽くした。1938年夏にスイスへ亡命し、1940年にはアメリカへ渡って、イェール大学の教授としてニューヘイブンに住んだ。『ウェーバーの主題による交響的変容』や『ルードゥス・トナリス』など、人気の高い作品の多くはアメリカ時代に書かれた。

1946年1月にアメリカの市民権を得たが、1951年からスイスのチューリヒ大学で教え、1953年にイェール大学を辞してスイスに移った。1956年には、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の初の日本への演奏旅行に指揮者として来日している。1963年11月に自宅で高熱を発し、診療のためにフランクフルトを訪れ、そこで12月28日に出血性膵炎のため亡くなった。独奏楽器として無視されていたヴィオラの独奏曲を多く残し、新即物主義や新古典主義を経て、バッハの対位法を好んだ。シェーンベルクらの無調音楽には否定的な立場をとった。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物