伝記
マティアス・ヤーコプ・シュライデンは、1804年4月5日にハンブルクで生まれたドイツの植物学者・生物学者である。もとは弁護士だった。父は地元ハンブルクで著名な医師で、市の医務官を務めていた。大学はハイデルベルクのルプレヒト・カール大学に進み、法律を学んで博士号を取った。学位を得た後はハンブルクに戻り、弁護士として生計を立てようとしたが、成功しなかった。やがて感情的な落ち込みに陥り、失意のなかで1832年にはピストルで自殺を図っている。命を取り留めると、彼は自殺未遂を悔い改め、自然科学に関心を向けるようになった。
ゲッティンゲンのゲオルク・アウグスト大学で医学を学んだが、それに飽きたらず、1835年にはベルリン大学へ移って植物学を勉強した。叔父のヨハン・ホルケルが植物の発生学を研究するよう勧め、まもなく植物学への愛着を全面的な探究へと育てていった。彼は乾燥標本による従来の分類学的な植物学に強く反対し、植物の構造を顕微鏡で調べることを好んだ。植物学の研究に顕微鏡などの物理学的、化学的な器具を導入すべきだと主張したことでも名高い。
1838年、同じベルリン大学で研究していた同国出身の動物学者テオドール・シュワンと知り合った。食事をともにしていたとき、話が植物の細胞に及び、二人は「あらゆる生物は細胞から成り立っている」という意見で一致したという。シュライデンは同じ1838年に、論文『植物発生論』のなかで、植物は独立した細胞の集合体であるとする植物の細胞説を唱えた。翌1839年には、シュワンが論文『動物及び植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究』で動物の細胞説を提唱した。二人はこんにち「細胞説」の提唱者として名高い。これは化学における原子論に並ぶ重要さをもつ生物学の原理として定式化されたものと評価される。また、スコットランドの植物学者ロバート・ブラウンが1831年に発見した細胞核の重要性に着目し、細胞分裂との関係に気づいたとされる。ただ、シュライデンは「核が成長して細胞になる」という誤った発表も行っている。
1839年からはイェーナのフリードリヒ・シラー大学で植物学の助教授を務め、1850年から1862年までは同大学の正式な教授として教壇に立った。1863年から翌年にかけてはドルパート大学に招かれて植物学の教授となった。教壇を退いたのちは、ドレスデンをはじめ各地を転々とし、最後はフランクフルト・アム・マインに住んで文筆活動を行った。晩年は哲学や歴史学に関心を持ち、同国出身の哲学者ヤーコプ・フリードリヒ・フリースに影響を与えた。進化論の初期の支持者でもあり、ダーウィンの説をいち早く受け入れたドイツの生物学者の一人とされる。『植物とその生命』(1848年)は1864年までに6度も増刷され、『研究・通俗講演』(1857年)とともに一般の読者にも読みやすく書かれて、ドイツで科学を広める条件づくりに貢献した。著作は多岐にわたり、『科学的植物学の基礎』(1842年〜43年)のほか、『海』(1867年)、『バラ』(1873年)、中世の学問におけるユダヤ人の意義を論じた書(1877年)なども著した。1881年6月23日、同地で77歳で亡くなった。小惑星37584に名が残っている。
同じ年に亡くなった人物
- ジェーン・ディグビー (1881年没)
- ビリー・ザ・キッド (1881年没)
- ルートヴィヒ・フォン・デア・タン=ラートザムハウゼン (1881年没)
- アウグスト・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータ (1881年没)
- アレクサンドル2世 (ロシア皇帝) (1881年没)
同じ地域に関係する人物
- マルガレーテ・フォン・プロイセン (1954年没)
- Bernhard Meyer (1836年没)
- バティルディス・ツー・シャウムブルク=リッペ (1962年没)
- ルイーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン (1825年没)
- アリス (ヘッセン大公妃) (1878年没)