HISTORICAL PERSON · 1963年没

オルダス・ハクスリー

イギリスの著作家で、のちアメリカに移住。ハクスリー家の一員として小説・エッセイ・詩・旅行記を発表し、特に小説で広く知られた。

生涯
1963年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ロサンゼルス)
出生地
イギリス連邦(ゴダルマイング)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

オルダス・レナード・ハクスリーは、1894年7月26日にイギリスのサリーで、作家レナード・ハクスリーと最初の妻ジュリア・アーノルドの子として生まれた著作家である。ヨーロッパで著名な科学者を数多く輩出したハクスリー家の一員で、祖父はダーウィンの進化論を支持した生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー、長兄ジュリアンも生物学者で、のちにユネスコの事務局長を務めた。異母弟のアンドリュー・フィールディング・ハクスリーはノーベル生理学・医学賞を受けている。小説、エッセイ、詩、旅行記など多くを発表したが、広く名を知られたのは小説によってである。

1908年、14歳で医者を志してイートン校に入学したが、間もなく母が45歳で亡くなり、妹のロバータも同じ月に別の事故で亡くなった。1911年には角膜炎を患って失明状態となり、退学した。のちに拡大鏡を使えば文字が読める程度には回復し、1913年にオックスフォード大学のベイリオル・カレッジに入って英文学と言語学を学んだ。翌1914年に第一次世界大戦が始まったが、視力のために兵役を免れた。その同じころ、失明中の彼の面倒を見てくれていた次兄のノエルが自殺している。1916年にオックスフォードを優等で卒業し、翌年にイートン校でフランス語の教師となったが、一年で辞めた。20代で作家としてデビューし、知性を重んじる主知主義の旗手とみられた。1919年にベルギー人のマリア・ニスと結婚し、翌年に息子マシューが生まれた。1926年には来日している。1932年の『すばらしい新世界』では、胎児のころから生化学的に管理され、洗脳的な教育で欲求が満たされて、管理されていることに疑問すら抱かなくなった市民が生きるディストピアを風刺した。

1937年、眼の疾患の治療のためにアメリカのカリフォルニア州へ移住した。視力の回復には、アレクサンダー・テクニークの創始者フレデリック・マサイアス・アレクサンダーから受けたレッスンなどが大いに役立ったと、自著『眼科への挑戦』に書いている。その後は神秘主義の傾向を強め、ヴェーダーンタ思想と密接な関係を持った。1945年の『永遠の哲学』では古今東西の神秘主義者の思想を引用して、神的な実在を認識した人間の思想を研究した。1942年にはインドのスピリチュアル教師クリシュナムルティに会い、長年家族ぐるみで親しく交流して深い影響を受け、1950年には鈴木大拙にも会っている。1953年春、精神科医ハンフリー・オズモンドに自ら幻覚剤の実験台となることを申し出て、メスカリンを服用した。主観と客観が一つになったこの経験を記したのが『知覚の扉』(1954年)で、1960年代の意識革命の発端として評価が高く、ティモシー・リアリーの理論の柱となった。1955年に妻マリアが乳がんで亡くなり、翌年に再婚した。晩年には、神秘主義的な哲学と博学を凝縮して、ユートピアを描いた小説『島』を書いた。

1963年11月22日、死の床で話すことのできなかった彼は、妻ローラに「LSD、100マイクログラム、筋肉注射」と紙に書いて渡し、彼女はそれに応じたと伝えられる。妻は旅立とうとする彼に、光に向かって進んでいるのだと語りかけ続け、午後5時20分に彼は静かに息を引き取った。同じ日にケネディ大統領の暗殺事件が起きたため、その死は影が薄くなった。親しい友人だったストラヴィンスキーは、作曲中の「管弦楽のための変奏曲」を追悼のために捧げ、1965年に初演した。

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