HISTORICAL PERSON · 1963年没

トリスタン・ツァラ

ダダイスムの創始者として知られるフランスの詩人。ルーマニア北部のユダヤ人家庭に生まれ、ペンネームはワーグナーの楽劇への言及に由来する。

生涯
1963年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 7区)
出生地
ルーマニア(モイネシュティ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

トリスタン・ツァラは、1896年4月16日にルーマニア北部のモイネシュチで、裕福なユダヤ人家庭に生まれた詩人で、ダダイスムの創始者として知られる。本名はサミュエル・ローゼンストック、愛称サミーといい、1925年にルーマニア内務省に請願して、現在の名を正式に名乗った。ペンネームは、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』への言及であるとも、ルーマニア語の「国で悲しい」という洒落であるともいわれ、後者は、フランス語の「悲しい」とルーマニア語の「故郷」を合わせて「故郷で悲しむ者」を意味するという。両親はイディッシュ語を第一言語としていたとされ、父フィリップと祖父イリエは森林業を営む実業家で、母はエミリア・ローゼンストックといった。当時のルーマニア王国の差別的な法のため、ローゼンストック家は市民権を認められず、ツァラも1918年以降まで完全な市民ではなかった。

11歳でブカレストへ移って寄宿学校に入り、16歳だった1912年10月には、友人のイオン・ヴィネア、画学生のマルセル・ヤンコとともに、雑誌『象徴』の編集に加わった。アドリアン・マニウの影響で象徴主義に関心を持ち、ヴィネアと実験的な詩も書いていたという。ブカレスト大学で数学と哲学を学んでいたが、第一次世界大戦中にヤンコのいるスイスのチューリッヒに渡った。1916年、リヒャルト・ヒュルゼンベック、ゾフィー・トイバー、フーゴ・バル、ジャン・アルプ、ハンス・リヒターらとともにチューリッヒ・ダダを結成し、1918年に「ダダ宣言」を発表した。キャバレー・ヴォルテールを中心に、言語の意味性を徹底的に剥ぎ取る手法と挑発的なパフォーマンスを繰り広げ、ヨーロッパ中の芸術家に衝撃を与えた。彼の仕事はダダの虚無的な面を表し、穏健な方針を好んだバルとは対照的であった。

やがてパリのアンドレ・ブルトンやルイ・アラゴンらが創刊した『リテラチュール』誌に寄稿するなど活動を共にし、1920年1月17日に渡仏して、ブルトンとともにパリ・ダダを率いることになった。ところが、まもなくツァラとブルトンの対立が表面化し、運動内部の対立にもつながって、即興劇「バレス裁判」を機にダダは衰退した。数年間の沈黙ののち、ブルトンと和解してシュルレアリスムに参加し、その影響のもとに、長編の詩『近似的人間』を書いた。戯曲に『ガスの心臓』(1921年)や『雲のハンカチ』(1924年)がある。

第二次世界大戦ではフランスに留まってレジスタンス活動に身を投じ、戦後はフランスに帰化して、1947年にフランス共産党に入党した。人道主義的で反ファシズムの立場は共産主義の展望と結びつき、スペイン内戦では共和派に加わり、国民議会の議員も一期務めた。1956年のハンガリー革命の直前にハンガリーの自由化を支持する発言をして、党とは距離を置くようになった。1960年には、アルジェリア戦争でのフランスの行動に抗議する知識人の一人となった。1963年に亡くなる直前まで詩作を続け、同年12月25日に没して、モンパルナス墓地に葬られた。若い頃はマヤ・クルーゼクと恋仲にあり、のちにスウェーデンの芸術家で詩人のグレタ・クヌートソンと結婚した。

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