HISTORICAL PERSON · 1963年没

ラージェーンドラ・プラサード

インド共和国の初代大統領。ガンディーの不服従運動に加わって4度投獄され、国民会議派の議長も務めた。1950年に憲法制定議会で満場一致で選ばれた。

生涯
1963年没
死亡地
インド(ビハール州 / パトナ)
出生地
インド(ジーラデーイー)
出典
世界地図
インド(ビハール州)

伝記

ラージェーンドラ・プラサードは、1884年12月3日にビハール地方のジラデイで、カーヤスタ階層の家に生まれた、インドの初代大統領である。通称プラサド博士。父マハデーヴ・サハイはサンスクリット語とペルシア語の学者で、母カムレーシュワリ・デーヴィーは信仰深い女性であり、ラーマーヤナやマハーバーラタの物語を子に語って聞かせた。ラージェーンドラは末の子で、兄1人と姉3人がいた。幼いうちに母を亡くし、姉に世話をされた。1896年、12歳の若さでラージヴァンシ・デーヴィーと結婚した。

地元のチャプラの学校のあと、兄とともにパトナの私塾で2年間学び、カルカッタ大学の入学試験で首席となって、月30ルピーの奨学金を得た。1902年にカルカッタのプレジデンシー・カレッジに入り、はじめは理科の学生だったが、1905年に最優等で卒業した。答案を見た試験官が「受験者のほうが試験官より優れている」と書き込んだという逸話がある。のち文科に転じ、1907年12月に経済学の修士号を最優等で取得した。熱心な学生であると同時に社会活動家でもあり、ビハール学生会議の結成に尽力した。1906年にパトナで開かれたこの会議は、インドで初めての同種の組織であり、ビハールの重要な指導者を輩出した。

修士号のあとはムザッファルプルの大学で英語の教授となり、学長にまでなったが、法律を学ぶために大学を去った。1909年には、法学の勉強のかたわら、カルカッタ市立大学で経済学を教えた。1915年には法学の修士の試験に合格して金メダルを得て、アラハバード大学で法学博士の学位も取得している。1916年にビハール・オリッサ高等裁判所に弁護士として登録し、1917年にはパトナ大学の最初の評議員の1人に任命された。

国民会議派との最初の関わりは、学生だった1906年のカルカッタでの年次大会に、ボランティアとして参加したことである。正式には1911年に入党した。1916年のラクナウ大会でガンディーと出会い、チャンパランでの調査の際に、ボランティアを連れて来るよう頼まれた。ガンディーの献身と勇気と信念に深く心を打たれ、1920年に国民会議派が非協力運動を決議すると、有利な弁護士の職を捨てて運動に身を投じた。1930年の塩の行進や1942年のインドからの撤退運動の際に英国当局に投獄され、投獄の経験は4度あるとされる。1932年1月、ガンディーとともに拘束されたヴァッラブバーイー・パテールの後任として、国民会議派の議長に任命され、1934年、1939年、1947年にも選ばれた。独立前の1946年には食料農業相を務めた。

独立後は憲法制定議会の議長となり、1950年1月23日に、共和国の初代大統領に満場一致で選ばれた。名目上の元首ながら、教育の発展を促し、政府に助言を与えた。1957年に再選され、2期の任期をまっとうした唯一の大統領となった。1958年9月27日には国賓として来日し、昭和天皇が空港まで出迎えた。岸信介首相とも会談し、京都では大谷大学から名誉博士の称号を贈られた。1962年4月、体調不良のため辞任し、1963年2月28日、パトナの自宅で死去した。穏健な左派の立場で、党の長老として左右両派の調整役を務めたとされ、ネルー首相の影に隠れがちだったが、非常に穏やかで人間味のある人物だった。菜食主義者でもあった。

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