HISTORICAL PERSON · 1962年没

ハンス・ルター

ドイツの法律家・財政家・政治家。エッセン市長を経て、1925年から翌年までヴァイマル共和政のドイツ国首相を務めた。財務相時代にはハイパーインフレ後の立て直しに関わった。

生涯
1962年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / デュッセルドルフ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

ハンス・ルターは、1879年3月10日にベルリンで生まれたドイツの法律家、財政家、政治家である。ヴァイマル共和政時代の1925年から翌年まで、ドイツ国首相を務めた。商人の家の生まれで、宗教改革者マルティン・ルターの親族と伝えられる。父オットーは、祖父の早世で大学進学の道を断たれ、建築用木材を扱う会社で働いて、その社主の娘と結婚した。1897年にギムナジウムを卒業した後、ジュネーヴで法律を学び、外国語、特にフランス語に磨きをかけた。その後はベルリン大学で経済学者シュモラーや法学者フーゴー・プロイスの講義を受け、一時はキール大学にも籍を置いた。ベルリンに戻って下級の裁判官の職を得たが、重圧と緊張から神経衰弱になり、飲酒に逃れた。療養所で休養したのち、1904年に法学博士号を取得した。

その後は官吏の道に進み、1906年にシャルロッテンブルク、1907年にマクデブルクの市参事会員となった。食料や水の供給など衛生の問題に力を入れ、1910年には、エルベ川に廃棄物を流す化学会社を相手取って訴訟を起こした。この訴訟は、市が約1500万マルクの賠償金を得て、彼のキャリアの大きな節目となった。1907年にゲルトルート・ヴォルフと結婚し、二人の娘をもうけた。1918年から1922年にはエッセン市長を務め、市政の成功で高い評価を得た。

1922年、ドイツ人民党寄りの無党派閣僚として、クーノ内閣に食糧・農業大臣として初入閣した。1923年のフランス軍によるルール占領で市が占領下に置かれたことには、それを権利の侵害とみなして、生涯、強い恨みを抱き続けたという。国内では首相に忠実に従い、インフレに襲われた国の食糧の供給にあたった。第二次シュトレーゼマン内閣で財務相に転じると、ヒャルマル・シャハトを通貨委員に登用し、ハイパーインフレーションの後のドイツ通貨の安定に努めた。新しい通貨レンテンマルクの導入や増税を進め、官吏の数を25パーセント減らして昇進を凍結した。1924年のロンドン会議では、ドーズ案の交渉に代表団の一員として加わった。

1925年1月、中央党、ドイツ人民党、ドイツ民主党に、初めて右派民族主義政党のドイツ国家人民党が加わった連立内閣を組織し、首相となった。外相のシュトレーゼマンの下でロカルノ条約が結ばれたが、10月に調印に反対した国家人民党が連立を離脱し、少数与党内閣に転落した。1926年5月には国旗をめぐる対立で連立が瓦解し、退陣した。1927年にドイツ人民党に入党し、1928年には分権化を主張する「国家刷新同盟」を設立した。1930年3月から1933年3月までドイツ帝国銀行の総裁を務めたが、1933年に政権に就いたヒトラー内閣の雇用創出政策を支持した一方で、通貨政策で対立して更迭され、後任にはシャハトが再び就いた。その直後から1937年まで駐米ドイツ大使を務め、1933年にはコロンビア大学で講演して、ヒトラーの「平和的意図」を強調した。大使を退いた後は隠退生活に入った。第二次世界大戦後は、西ドイツで銀行の設立や州の区分の画定に関する諮問委員を務め、1962年5月11日にデュッセルドルフで死去した。

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