伝記
リチャード・オールディントンは、1892年7月8日にポーツマスで、4人きょうだいの長男として生まれたイギリスの作家・詩人である。出生名はエドワード・ゴッドフリー・オールディントンといい、アルディントンとも表記される。父は弁護士で、両親ともに書籍の執筆や出版をしていたため、家にはヨーロッパ文学や古典文学の大きな書庫があった。読書のほか、蝶の収集やハイキング、語学の学習に関心を向け、フランス語、イタリア語、ラテン語、古代ギリシャ語を身につけた。ドーバー近くの神学校で教育を受け、父は56歳で心臓の障害により亡くなった。ロンドン大学のドーバー・カレッジに進んだが、父の投機の失敗による借金のため、学位を修了できなかった。わずかな手当に支えられてスポーツジャーナリストとして働き、雑誌に詩を発表しはじめ、イェイツやウォルター・デ・ラ・メアらの文学界隈に引きつけられていった。
1911年、社交界のホステスのブリジット・パットモアと出会い、彼女を通して、アメリカの詩人エズラ・パウンドと、詩人ヒルダ・ドゥリトルに知り合った。1913年、ヒルダとはイタリアやフランスを広く旅して親密になり、パウンドや、アメリカから渡ってきたドゥリトル一家の立ち会いのもとで結婚した。結婚は1938年まで続いた。夫婦は戦争前の文学界の動乱に夢中になり、保守的なヴィクトリア朝の慣習に対する新しい詩やフェミニズム、哲学の捉え方を共有して、絆を深めた。エイミー・ローウェルを通して、1914年には作家のD・H・ローレンスと知り合い、ローレンスはのちに二人の親しい友であり師となった。
オールディントンの詩は、明確なイメージを持つ自由詩を擁護し、ヴィクトリア朝の道徳の強調を取り除こうとしたことから、新興のモダニズム運動の鍵となったイマジストのグループに結び付けられる。1912年にパウンドは、ヒルダと彼を指して「イマジスト」という言葉を作った。彼の詩は、創刊アンソロジー『イマジストたち』(1914年)のほぼ3分の1を占めた。この運動は日本の芸術と古典的なヨーロッパの芸術に強く触発されていた。パウンドが雑誌『ポエトリー』に送った彼の詩は1912年11月に掲載され、編集者は「コリコスの歌」を、この言語で最も美しい死の歌の一つと評した。1914年から1916年には文芸誌『エゴイスト』の文芸編集者を務め、ウインダム・ルイスの作品を批評し、フォード・マドックス・フォードの友人でもあった。
1914年にヒルダが妊娠したが、娘は死産に終わり、夫婦の関係には大きな負担がかかった。戦争の勃発はオールディントンを深く動揺させ、彼は他の女性と関係を持つようにもなった。1916年6月に軍に入隊し、12月に前線へ送られた。シラミや泥、ひどい衛生状態のなかで暮らし、前線で遭遇したガスは、残りの人生に影響を与えた。1917年11月、王立サセックス連隊の少尉に任命され、通信将校、臨時大尉として戦争を終え、1919年2月に復員した。戦場での経験は、選集『戦争のイメージ』と『欲望のイメージ』(1919年)に書き残したが、憂鬱さに満ちていた。ヒルダとは公式に別れたが、ずっと友人のままだった。戦後は友人のT・S・エリオットを助け、1919年に『タイムズ文芸付録』の編集者に引き合わせた。のちに批評家・伝記作家として知られ、『ウェリントン』(1946年)はジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を受けた。1962年7月27日に没した。
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