HISTORICAL PERSON · 1962年没

ウィリアム・フォークナー

アメリカの小説家。ヘミングウェイと並び称される20世紀アメリカ文学の巨匠で、『響きと怒り』『八月の光』などを著し、1949年にノーベル文学賞を受賞した。

生涯
1962年没
死亡地
アメリカ合衆国(ミシシッピ州 / Byhalia)
出生地
アメリカ合衆国(ニュー・オールバニー)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ミシシッピ州)

伝記

ウィリアム・カスバート・フォークナーは、1897年9月25日にミシシッピ州の田舎町ニューオールバニーで生まれ、1962年7月6日に没したアメリカ合衆国の小説家である。本来の姓はフォークナーではなく、ファルクナーといった。ヘミングウェイと並び称される二十世紀アメリカ文学の巨匠で、南部の因習的な世界を、「意識の流れ」をはじめとする実験的な手法で描いた。1949年度のノーベル文学賞を受けた。

四人兄弟の長男で、二番目の弟ジョン・ウェズレーも後に作家となった。父は、曾祖父が開業した地方鉄道の駅長をしていた。曾祖父ウィリアム・クラークは、弁護士として名を挙げ、南北戦争では義勇軍の隊長として出征し、戦後は事業や議会に進出して、小説や紀行を書いてベストセラーにもなった傑物で、幼いフォークナーの尊敬の的であった。一家は生まれた翌年にリプレーに移り、5歳のとき祖父が鉄道事業を手放したため、父は駅長を辞して同州のオックスフォードへ移った。以後、生涯のほとんどをこの町で過ごした。10歳のころから詩を書き始めたが、学校の勉強には興味が持てず、高校を1年で中退した。そのころから、4歳年上の法学生フィリップ・ストーンと親交を結び、手ほどきを受けて、文学的な教養を身につけた。祖父の銀行に勤めた後、第一次世界大戦が始まると入隊を希望し、1918年7月に英空軍に入って、カナダのトロントで訓練を受けた。11月に戦争が終わったため、実戦に出ないまま少尉に特別進級して除隊した。翌年ミシシッピ大学に入ったが、1年で退学した。1921年に同大学の郵便長となり、1924年に免職された。この年、ストーンの尽力で最初の詩集『大理石の牧神』を出した。

1925年、ニューオーリンズでシャーウッド・アンダーソンと知り合って親しくなり、その刺激で長編小説に着手した。1926年に最初の長編『兵士の報酬』を出版した。1929年には、のちにヨクナパトーファ・サーガと呼ばれる連作の第1作を刊行し、同年に『響きと怒り』を完成させた。しかし作品はほとんど売れず、この傑作も、当時は一部の批評家に賞賛されたのみだった。同じ年、幼なじみで離婚していたエステル・オールダムと結婚し、翌年に家を買って移り住んだ。その後、『死の床に横たわりて』『サンクチュアリ』『八月の光』『アブサロム、アブサロム!』などを発表したが、自国では評価されず、生活のためにハリウッドの台本書きの仕事を始め、1945年まで長短10回滞在した。監督ハワード・ホークスと知り合い、『脱出』や『三つ数えろ』の脚本も手がけている。転機は、1946年にマルカム・カウリーが編んだ『ポータブル・フォークナー』で、これによって急に注目され、絶版だった著書が次々に復刊された。1950年にノーベル文学賞が贈られた。

作品の舞台は、生涯の大半を過ごした地をモデルにした架空の土地ヨクナパトーファ郡である。人物の再登場によって、各作品が結びつけられている。『響きと怒り』では章ごとに語り手を変え、冒頭に知的障害のある人物を語り手として置き、混乱した情景を示し、読み進むにつれて物語が明らかになる構成をとった。トニ・モリソンやガルシア=マルケス、日本の大江健三郎、中上健次らに影響を与えた。1955年8月に来日し、長野市での「アメリカ文学セミナー」で、敗戦国日本と、南北戦争に敗れた自身の郷里とは似た宿命を負っていると述べた。1962年6月に最後の作品『自動車泥棒』を出版し、同年7月、落馬の事故で血栓症を起こし、心筋梗塞のため、オックスフォードに近い病院で亡くなった。64歳であった。

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