伝記
ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユは、1897年9月10日にフランスのビヨムで生まれ、1962年7月8日に没した哲学者、思想家、作家である。ニーチェから強い影響を受け、のちのブランショ、フーコー、デリダらに影響を及ぼして、ポスト構造主義にも影響を与えた。
父は梅毒に侵されて全盲の状態にあった。両親は無宗教だったが、本人の意志で1914年にカトリックに入信し、敬虔な信者として過ごした。そのころ、神秘主義的な素養が芽生えたとされる。1908年にランスのリセに入ったが1913年に中退し、エペルネーのコレージュに移った。1916年に第一次世界大戦に動員されたが、肺結核を患った。その後ニーチェの読書体験を通じて、1920年代の初めまでには無神論者になった。1918年にパリへ出て国立古文書学校に入り、1922年に卒業して、国立図書館の司書に任命された。哲学的にはレオン・シェストフに基礎をおき、1924年にはシェストフの本をロシア語から共訳している。このころからシュルレアリストたちと行動をともにし始めた。精神的な変調から1925年に精神分析の治療を始め、一年で打ち切ったが、担当の医師に書くよう励まされた結果、『眼球譚』が生まれたという。1928年に女優シルヴィア・マクレスと結婚し、『眼球譚』を偽名のロード・オーシュ名義で出版した。
1929年から雑誌『ドキュマン』の編集に携わり、図版を交えながら様々な論を展開した。西欧の観念論を批判して、シュルレアリストから非難を買った。アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲルに関する講義に衝撃を受け、打ちのめされたという。共産主義を、制度的な至高性に対抗しうる運動として称揚し、1931年から反スターリン主義の左翼集団「民主共産主義サークル」に加わった。1934年にシルヴィアと離婚し、この年にはサークルの解散に際して一時的にトロツキスト団体にも加わったが、このころに「内的体験」や「瞑想の方法」に目覚めたとされる。1936年に政治団体を結成するも半年ほどで解散し、1937年に私的な結社『アセファル(無頭人)』を結成した。ナチスによるニーチェ思想の濫用を早くから非難し、ハイデッガーにも批判的だった。
バタイユの仕事は、おもに三つの群に分けられる。第一は、神秘主義的で内的体験的な思想的文章群で、『内的体験』『有罪者』『ニーチェについて』の『無神学大全』三部作が代表である。1943年から1945年にかけて出版された。第二は、体験を外在的、歴史的に探求する文章群で、『呪われた部分』『エロティシズムの歴史』『至高性』が象徴的である。第三は、『眼球譚』『空の青』『わが母』などの小説群である。「死」と「エロス」を根源的な主題とし、経済学、社会学、人類学、文学、宗教など、多岐の分野にわたって執筆した。1946年に月刊書評誌『クリティク』を創刊し、1951年にディアーヌ・コチュベ・ド・ボアルネと再婚してオルレアン市立図書館の館長に就いた。1955年に頸部動脈硬化症と診断され、1962年に病状が急速に悪化して世を去り、墓地に埋葬された。フーコーは全集の序文に、バタイユは今世紀の最も重要な書き手の一人だと記している。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルギオス・パパニコロウ (1962年没)
- ルドルフ・フォン・ビュノー (1962年没)
- ルドウィッヒ・ベーメルマンス (1962年没)
- ジェイムズ・ワーディー (1962年没)
- ジョゼフ・プロファチ (1962年没)
同じ地域に関係する人物
- シャルル・バルビエ・ド・メナール (1908年没)
- カミーユ・エルランジェ (1919年没)
- オノレ3世 (モナコ公) (1795年没)
- テオドール・ド・バンヴィル (1891年没)
- リュシル・デュプレシ (1794年没)