HISTORICAL PERSON · 1429年没

ジャン・ジェルソン

フランスの神学者でパリ大学総長。教会大分裂の収拾に尽力し、コンスタンツ公会議の開催を皇帝ジギスムントに働きかけて実現させた。

生涯
1429年没
死亡地
フランス共和国(ローヌ県 / リヨン)
出生地
フランス共和国(ゲルソン)
出典
世界地図
フランス共和国(ローヌ県)

伝記

ジャン・ジェルソンは、1363年12月14日にフランス北東部アルデンヌのジェルソン村で生まれた神学者である。父アルヌルフ・シャリエと母エリザベート・ド・ラ・シャルドニエールは学のある農民の家の出で、敬虔な人々であった。多くのきょうだいが修道の道に進んだ。13歳か14歳のころパリに送られてナバール学寮に入り、自由学芸を修めたのち神学を学んだ。ここでパリ大学総長ピエール・ダイイの薫陶を受けた。ダイイはのちに司教から枢機卿となり、ジェルソンの生涯の師にして友となった。

優秀さで早くから注目され、1383年から1384年にかけてパリ大学のフランス人学生団の代表に選ばれた。1387年には、大学の代表団の一員としてアヴィニョンの教皇クレメンス7世のもとへ赴いた。パリ大学出身のドミニコ会の神学博士モンソンが、聖母マリアも原罪を免れなかったと教えたため、大学から追放され、これを不服として教皇に訴え出たからである。ダイイやジェルソンらは、個人としては聖母の無原罪の教えに賛成だったが、大学が神学教授を審査する権利を守るため、この件に臨んだ。この旅でジェルソンは教会分裂の現状と聖職者の道徳の低下に衝撃を受け、のちのルターのローマ旅行とよく比べられる。以後パリ大学を拠点に、聖職者の霊的向上と教会分裂の克服に全力を注ぐことになった。

1392年ごろ神学の学位を得て、1394年に博士となった。1395年にダイイがル・ピュイの司教になると、32歳でその後任としてパリ大学総長に選ばれ、ノートルダムの参事会員にもなった。彼のもとで大学は王権や教皇権に対する自主性を主張し、教員の聖職者の道徳と研究環境も高められて、パリ大学の名声は頂点に達し、ヨーロッパ中から学生が集まった。

最大の業績は、1378年のグレゴリウス11世の死後に教皇が並び立った教会大分裂を克服する努力であった。ジェルソン、ダイイらは、クレメンス7世の時代に、パリ大学の名で「協議の道」「妥協の道」「公会議の道」の3つの解決策を示した。パリ大学の働きかけは、対立する教皇たちから協議の合意を得るところまで進んだが、教皇たちの指導力のなさで果たされず、ジェルソンの期待は公会議へと移っていった。ピサの教会会議が、問題を解決するどころか第3の教皇を立ててしまうと、ダイイは公会議にも失望したが、ジェルソンはあきらめなかった。ブルゴーニュ公ジャンの指示によるオルレアン公ルイの暗殺を合法とした神学者ジャン・プティの弾劾を、公会議で確かめたいという理由も、彼にはあった。

ジェルソンの熱意は皇帝ジギスムントを動かし、1415年にコンスタンツ公会議が開かれた。公会議は3人の教皇を廃位あるいは退位させて新教皇を立て、分裂に終止符を打った。またフス派への対応も話し合われ、ヤン・フスは火刑に処された。公会議が教皇に優越するとの立場はジェルソンの思想と同一視されがちだが、彼は、その優位は教会分裂のような非常事態に限ると考えていた。皮肉にも、名を不朽にしたこの公会議で彼は没落する。黒幕のブルゴーニュ公の圧力でジャン・プティへの弾劾が却下されたからである。敵対するブルゴーニュ公が国内で力を増していたため、ジェルソンはフランスに戻らず、コンスタンツやラッテンベルクに滞在して『神学のなぐさめ』などを書いた。年老いて故国に戻ろうと、弟が修道院長をしていたリヨンに来た。伝承では子どもたちに勉強を教え、その礼として求めたのは、自分の魂の救いのための短い祈りだけだったという。晩年は神秘神学の信心書を書いた。1429年7月12日、リヨンで亡くなった。

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