伝記
ザヴィシャ・チャルニは、1379年に生まれたポーランドの騎士で外交官である。「黒騎士」と呼ばれ、「チャルニ」は「黒」を意味するあだ名で、本名ではない。あだ名の由来には、黒い髪から来たとする説と、特注の黒い甲冑から来たとする説があり、前者のほうが有力とされる。スタリ・ガルブフの、スリマ紋章を持つ土地の貴族の家に生まれた。父ミコワイはコナリ・シェラツの城代で、母はドロタといった。弟にスピシュの長官となったヤン・ファルレイと、ピョトル・クルチェクがいる。1397年に、クラクフ司教ピョトル・ヴィシュの姪にあたるピラヴァ紋章のバルバラと結婚し、4人の息子をもうけた。
ザヴィシャは、一時はドイツ騎士団に仕えたが、まもなく離れ、1410年のタンネンベルクの戦いでは、ポーランド側に立って武勲を上げた。戦いのあと、親友のスティボルとともに、ポーランド王ヴワディスワフ2世と、当時ハンガリー王であったジギスムントとの和平を提案し、これがルボウラ条約となった。1412年にはブダで開かれた会議に加わり、そこで行われた槍試合で、1500人の騎士の中から優勝した。外交官としても活躍し、コンスタンツ公会議には、ポーランド使節団の6人の一人として参加し、監禁されたヤン・フスに面会して理解を示し、その処刑に強く反対した。1416年には、南フランスのペルピニャンの大会で、当代最強とされたアラゴンのフアンという騎士にも勝った。翌年、クルシュヴィツァの長官となった。1419年には、ヴワディスワフ2世の代理としてジギスムントのもとへ行き、ジギスムントの弟ヴェンツェルの未亡人ゾフィー・フォン・バイエルンとの縁談を申し入れた。
その後、フス戦争ではジギスムントの側で戦った。1421年12月21日、クトナー・ホラでジギスムントが敗れたとき、ザヴィシャはフス派に捕らえられたが、高い身代金と引き換えに釈放された。これは、フスへの対応をヤン・ジシュカが評価したものと考えられている。1428年、ザヴィシャは500騎の軽騎兵の旗隊を率いて、ジギスムントのオスマン帝国との戦いに加わった。ドナウ川沿いのゴルバツ城の包囲戦で、ジギスムントの軍は敗れ、川を渡って退却しなければならなかったが、舟は数えるほどしかなく、ザヴィシャの旗隊が退却する軍を守った。重要人物であった彼は、ジギスムントから直接呼ばれたが、王の臆病に失望して、「私の名誉を持ち上げるほど大きな舟はない」と言って、退却を拒んだといわれる。6月12日、戦いのなかで殺されたとも、オスマンの捕虜となって処刑されたともいわれ、斬首されたとも伝えられる。
息子のマルチンとスタニスワフは1444年のヴァルナの戦いで、ヤンは1454年のホイニツェの戦いで戦死した。孫娘のバルバラは、のちの軍司令官ヤン・タルノフスキの母となった。ザヴィシャは、生前から騎士の鑑と評され、死後には、歴史家ヤン・ドゥゴシュやジギスムントにも称えられた。信義に篤い人物として、ポーランドでは「ザヴィシャのように頼れる」という言い回しが生まれ、ボーイスカウトの宣誓にも使われている。サッカークラブのザヴィシャ・ブィドゴシュチュなどの名にもなった。ゴルバツ城のあるセルビアでも勇敢な騎士として敬われ、城には記念碑が立ち、ベオグラードには彼の名を冠した通りがある。
同じ年に亡くなった人物
- 称光天皇 (1428年没)
- アンゼルム・トゥルメーダ (1428年(推定))
- ルドルフ3世 (ハッハベルク=ザウゼンベルク辺境伯) (1428年)
- フリードリヒ1世 (ザクセン選帝侯) (1428年没)
- マシュトラ (1428年没)
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