伝記
サミュエル・ダシール・ハメットは、1894年5月27日、メリーランド州セントメリー郡の農場で生まれたアメリカのミステリ作家である。父はリチャード・トーマス・ハメット、母はアン・ボンド・ダシールで、母はメリーランドの旧家の出であり、姓はフランスの姓を英語化したものだった。洗礼を受けてカトリック教徒となり、フィラデルフィアとボルチモアで育った。通称はサムで、十三歳で学校を離れて職を転々とし、アメリカ屈指の探偵会社であるピンカートン探偵社にたどり着いた。1915年から1922年2月まで探偵として働いたが、第一次世界大戦のあいだは休職している。ピンカートンはこの頃スト破りを請け負っており、それを知って、探偵という職業に抱いていた幻想を捨てたという。
1918年にはアメリカ陸軍の衛生隊に所属したが、スペインかぜにかかり、結核を患った。陸軍ではワシントン州タコマの病院で、患者として過ごすことが多かった。その病院で看護婦のジョセフィン・ドランと出会い、結婚して、1921年に長女メアリー・ジェーン、1926年に次女ジョセフィンが生まれた。次女の誕生直後、結核が乳幼児にうつる恐れがあるとして家族と同居できなくなり、妻子がサンフランシスコに住み、ハメットが週末に訪ねる形をとった。結婚生活は間もなく破綻したが、彼は執筆の収入から養育費を払い続けた。
広告の仕事のかたわら、1922年から推理小説雑誌『ブラック・マスク』に短編を書き始めた。同誌の看板作家の一人となったのち専業作家になり、作品の大部分は、サンフランシスコに住んでいた1920年代に書かれた。報告書のように簡潔な筆致で登場人物の行動を描くハードボイルドの文体は、この頃に確立された。初期作品にしばしば登場するのが、小太りのコンチネンタル探偵社の調査員、通称コンチネンタル・オプである。1929年には『血の収穫』、続いて『デイン家の呪い』を発表した。『血の収穫』は壮絶な暴力のドラマで、その後のアクション小説や映画に大きな影響を与えた。同年に雑誌連載され、翌年に単行本となった『マルタの鷹』は最も有名な作品で、サンフランシスコの私立探偵サム・スペードの行動を、カメラのように客観的な視点で描き、後続の作家の範とされる。1931年の『ガラスの鍵』は、ハメット自身が最も愛した作品である。1934年の『影なき男』は夫婦探偵の活躍を描き、大衆にも人気を博した。
1931年、劇作家リリアン・ヘルマンと出会い、その後三十年をともに過ごした。二人の関係は映画『ジュリア』に描かれている。1934年に最後の長編を書いたのち、左翼の積極的な行動に生涯を捧げ、労働者の実態を知るがゆえに労働運動に強く共感した。1937年にはアメリカ共産党に加わった。第二次世界大戦では1942年に陸軍へ志願し、戦時中のほとんどをアリューシャン列島で、陸軍の新聞を作る軍曹として過ごし、肺気腫のため除隊した。戦後の1946年に公民権議会の議長に選ばれたが、同会の保釈基金に関する裁判で、寄付者の名簿の提出を拒み、1951年に法廷侮辱罪で有罪となって服役した。1953年には上院の委員会でも協力を拒んだため、ブラックリストに載せられた。
晩年は結核が飲酒と喫煙で悪化し、長編『チューリップ』も完成できなかった。1950年代には「隠者」のような生活を送り、最晩年の四年はヘルマンが同居して世話をした。1961年1月10日、ニューヨークの病院で肺癌のため亡くなり、二つの世界大戦に従軍した退役軍人として、アーリントン国立墓地に葬られた。
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