伝記
モーリス・メルロ=ポンティは、1908年3月14日、フランス西部のロシュフォールで生まれた哲学者である。5歳のとき父を亡くした。パリのリセ・ルイ=ル=グランを経て高等師範学校に入り、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユらと同じ場で学んだ。ボーヴォワールは自伝の中で、彼と親しい友人になって心惹かれたが、ブルジョワ的な生活と価値観にあまりになじんでいると感じたと記している。1929年2月にはフッサールのパリ講演を聴講し、現象学に傾注するようになった。同年、プロティノスにおける「多なるもの」の概念を論じた論文で高等教育修了免状を得て、1930年に哲学のアグレガシオンに合格した。カトリックの家庭に育ったが、社会主義の立場が教会の社会・政治の教えと相いれないとして、1937年に教会を離れた。
最初はボーヴェのリセで教え、のちシャルトルのリセを経て、1935年に高等師範学校の復習教師となり、1939年まで教えた。この間、アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル講義や、ゲシュタルト心理学についての講義に出た。1939年春には、新設されたフッサール文庫を外国人として最初に訪れ、未刊の草稿を閲覧した。同年夏、フランスがドイツに宣戦すると前線に出て、1940年6月に戦闘で負傷した。パリに戻った1940年秋にはスザンヌ・ジョリボワと結婚し、サルトルとともに地下の抵抗グループを作り、パリ解放の際にはドイツ軍に対する武装デモにも加わった。戦時中はリセ・カルノーやリセ・コンドルセで教えた。1945年には、『行動の構造』と『知覚の現象学』の二冊を主論文として博士号を得ている。同年、サルトルやボーヴォワールとともに、左派の雑誌『レ・タン・モデルヌ』を創刊し、主任編集者となった。
戦後はリヨン大学で教えたのち、高等師範学校でも教え、そこで若きミシェル・フーコーの指導もした。その後、1949年にパリ大学文学部の教授となり、児童心理学や教育学を研究した。哲学の中心には、知覚が人間の世界経験で果たす基礎的な役割がある。知覚の主体である身体を主体と客体の両面をもつものとしてとらえ、身体から生み出された知覚を手がかりに、身体と世界を考察した。精神と身体というデカルト以来の対立も、知覚の次元に掘り下げて、「どちらかであるとはいえない、つまり両義的である」と指摘した。そのため、その哲学は「両義性の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれる。冷戦が激化するなかでマルクス主義に幻滅し、サルトルとは決別した。20世紀前半の主要な現象学者のなかで、科学と広く関わった唯一の人物とされ、心理学、神経学、精神医学にも幅広い知識を持っていた。やがて身体の優位の探究は現象学を離れて、のちに「間接的存在論」「世界の肉」の存在論と呼ぶことになる考えに向かった。そこでの新しい存在論の試みが、絶筆となった未完の『見えるものと見えないもの』に見られる。
1961年5月3日、パリの自宅で執筆中に心臓麻痺で急逝した。53歳だった。遺骸はパリの墓地に葬られ、母、妻、娘とともに眠っている。
同じ年に亡くなった人物
- パット・オハラウッド (1961年没)
- アントン・フレットナー (1961年没)
- アニタ・スチュワート (1961年没)
- パトリス・ルムンバ (1961年没)
- シェムセッティン・ギュナルタイ (1961年没)
同じ地域に関係する人物
- ポール・ピール (1892年没)
- アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシュー (1836年没)
- ジョルジュ・スペナール (1983年没)
- アルフレッド・ド・ミュッセ (1857年没)
- Perchouhi Partizpanyan-Barseghyan (1940年没)