伝記
アルフレッド・ルイ・シャルル・ド・ミュッセは、1810年12月11日に生まれ、1857年5月2日に没したフランスのロマン主義の作家である。詩、小説、戯曲を広く手がけ、とりわけ演劇ではロマン主義演劇の代表者とされる。貴族の家系に生まれ、家は愛情深く教養があって、文学や芸術への関心を伝えられた。父ヴィクトル・ドナシアンは陸軍省の課長を務めた高級官吏で、文筆家でもあり、ジャン=ジャック・ルソーの専門家としてその著作集を編んだ。のちにミュッセはルソーにたびたび敬意を表し、反対にルソーの敵対者ヴォルテールは激しく攻撃した。名付け親の作家ミュッセ・ド・コニェのサルト県の城館で休暇を過ごし、そこの雰囲気は『戯れに恋はすまじ』などに写されたといわれる。
9歳に満たないうちにアンリ4世校の第6学級に入り、王族のシャルトル公(オルレアン公の子)が同級生で友人であった。1827年にはコンクール・ジェネラルのラテン語論文で2等賞を得ている。大学入学資格試験の後、1829年ごろまで医学、法学、絵画の勉強を試みたがいずれも早々にやめ、関心は主に文学にあった。ポール・フーシェの紹介で17歳のころから「セナークル」や、シャルル・ノディエのサロンに出入りし、サント=ブーヴやヴィニーに親近感を示す一方、巨匠ヴィクトル・ユーゴーを崇拝することは拒んだ。そのころから「放蕩のダンディ」と呼ばれる生活を始めた。処女詩集『スペインとイタリアの物語』は、プーシキンに称賛されたと伝えられ、プーシキンが本当に評価した同時代のフランス詩人は彼だけだったという。
1830年、戯曲「ヴェネチアの夜」の初演で大ブーイングを受けた。これがきっかけとなり、舞台にかけることを前提としない「読まれるための戯曲」を書き続けることになり、そうした戯曲集には「肘掛椅子の中での観物」という題が付けられた。戯曲は初期のものを除いて散文劇が多いのが特徴で、『マリアンヌの気まぐれ』『ロレンザッチョ』『戯れに恋はすまじ』などがある。1833年に女流作家ジョルジュ・サンドと出会って交際を始め、それをもとにして長編小説『世紀児の告白』(1836年)を書いた。1835年から1837年にかけて、『五月の夜』をはじめとする、苦悩に満ちた詩のいわゆる「夜」の連作も発表している。
晩年は鬱と飲酒に悩まされ、年齢を重ねるにつれて筆を執ることが少なくなった。それでも「悲しみ」「失われた夜」などの詩や、短編「白つぐみ物語」(1842年)は書かれた。レジオンドヌール勲章を受け、アカデミー・フランセーズの会員にも選ばれ、注文を受けて戯曲も書いた。1857年、47歳のとき、大動脈疾患と過剰なアルコール摂取によって生涯を閉じ、ペール・ラシェーズ墓地にひっそりと葬られた。波乱に富んだ生涯は、サンドやポーリーヌ・ガルシアとの関係に象徴される。後世には、ジャン・ヴィラールとジェラール・フィリップが関わった国立民衆劇場などの上演を通じて、フランス・ロマン主義最大の作家の一人と見なされるようになり、その叙情詩は極端な感受性と、愛の高揚、苦痛の率直な表現を示すとされる。ローマ時代の哀歌詩人カトゥルスになぞらえる者もいる。
同じ年に亡くなった人物
- イグナシオ・アルバレス・トマス (1857年没)
- ダニエーレ・マニン (1857年没)
- ヴィクトワール・ド・サクス=コブール=コアリー (1857年没)
- ウィリアム・ブラウン (提督) (1857年没)
- ヨーゼフ・レッセル (1857年没)
同じ地域に関係する人物
- ポール・ヴァレリー (1945年没)
- ジャン=バティスト・デブレ (1848年没)
- ダリー・コール (2006年没)
- アントワーヌ・ペヴスナー (1962年没)
- Sophie Gay (1852年没)