伝記
フランツ・オマー・ファノンは、1925年7月20日、当時フランスの植民地だった西インド諸島のマルティニーク島の中心都市フォール・ド・フランスに、中流家庭の子として生まれた思想家・精神科医・革命家である。八人きょうだいの三男で、きょうだいのうち二人は早く亡くなり、とくに親しかった妹ガブリエルもその一人だった。父は黒人奴隷の子孫にあたり、税関で働く公務員、商店を営む母は混血で、白人側の祖先にはアルザスの出身者がいたと伝えられる。少年期はサッカーに熱中し、のちにアルジェリアの病院でも患者と職員のために試合を催した。名門の高等中学に進んで、のちの詩人・政治家エメ・セゼールに文学を教わった。
第二次世界大戦でフランスがナチス・ドイツに降伏すると、マルティニークはヴィシー政権を支持するジョルジュ・ロベール提督の海軍が握った。その統治は権威主義的で、典型的な人種差別主義によるものだったとされ、黒人住民への嫌がらせが相次いだ。ファノンは後に、政権が仮面を脱ぎ捨てて真の人種差別主義者としてふるまったと述べている。この現実のなかで疎外感と嫌悪を深めた。1943年、十七歳で島を逃れて英領ドミニカに渡り、自由フランス軍に加わった。マルティニークでは同じ年に民衆の蜂起でロベールが島を離れており、一度戻ったファノンは、翌年改めて志願兵として自由フランス軍の部隊に入った。モロッコのカサブランカで初めてアフリカの地を踏み、フランス本土に移ってアルザスの戦いに従軍し、1944年にコルマールで負傷して軍功章を受けた。連合軍がライン川を渡るころ、彼の連隊は白人ばかりに入れ替えられ、非白人の兵士はトゥーロンへ送られた。
1945年に短期間マルティニークに戻って、セゼールの選挙を手伝った。バカロレアを得るとフランスに渡り、医学と精神医学を学んだ。リヨン大学では文学や演劇、哲学も学び、メルロ=ポンティの講義を聴くこともあり、またサルトルの他者論と反差別論に強い影響を受けた。サルトルは後に『地に呪われたる者』の序文を書くことになる。1951年に精神科医の資格を得て、カタルーニャ人の医師フランソワ・トスケルの下で研修医となり、この経験が、文化を精神病理学的に見る姿勢に影響したという。臨床医を続けながら、1952年に『黒い皮膚・白い仮面』を発表した。
1953年にアルジェリアへ渡り、ブリダ=ジョアンヴィル精神病院の医療主任として1956年まで勤めた。そこで独立運動家の捕虜を診療するうちに、フランスの植民地支配への反対を強め、アルジェリア民族解放戦線に参加してアルジェリア戦争を戦った。戦線の代弁者として、脱植民地化の時代のアフリカ各地を回り、独立指導者たちからアルジェリア独立への支持を取り付けた。1961年には白血病に冒されながら、『地に呪われたる者』をわずか十週間で書き上げた。しかし1962年のアルジェリア独立を目前にした1961年12月6日、アメリカのワシントン近郊で、白血病のため亡くなった。
1962年にはカテブ・ヤシーンが詩の中で彼を追悼した。だが現在のアルジェリアでは、その名はほとんど忘れ去られているともいう。精神科医としては、精神を病む人を施設に閉じ込めるより、家族や地域に統合したほうが予後がよいと考えた。日本ではみすず書房から著作集が刊行されている。
同じ年に亡くなった人物
- フェルディナンド・ビー (1961年没)
- ジョージ・シンプソン (1961年没)
- アンジェイ・ムンク (1961年没)
- マリベル・ビンソン (1961年没)
- ベンジャミン・アダムス (1961年没)
同じ地域に関係する人物
- ポーリーン・ベッツ (2011年没)
- エーモス・ソーヤー (2022年没)
- ルイス・マクレーン (1857年没)
- トーマス・C・キンケイド (1971年没)
- レオ・シュトラウス (1973年没)