伝記
シャルロット・ド・ブルボンは、キプロス王ジャヌスの2番目の妃となった、フランス出身の王妃である。1388年に生まれたとされるが、1386年から1393年のあいだとする見方もある。父はラ・マルシュ伯ジャン1世、母はヴァンドーム女伯カトリーヌで、7人の子の一人だった。兄にラ・マルシュ伯ジャック2世、ヴァンドーム伯ルイ、ジャン、姉にアンヌ、妹にマリーがおり、庶出の異母兄弟ジャンもいた。名づけ親はフランス王シャルル6世で、聖王ルイ9世の直系の子孫でもあった。
ジャヌスは1375年に生まれ、キプロス王ジャック1世と、ヘルヴィス・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲンの子である。彼は、数年前に最初の妻アングレジア・ヴィスコンティと離婚していたが、この結婚に子はなかった。縁談の理由ははっきりしないが、1401年にブシコーがジェノヴァを占領し、キプロス島にあるジェノヴァ領ファマグスタをも押さえたため、ジャヌスは、これを奪い返したくてフランスの支えを求めたと考えられる。フランスの王女との縁談の接触は1405年に始まり、1408年にレモン・ド・レスキュールらの使節がシャルル6世に厚く迎えられた。使節は王族の姫たちに会うことを許され、美しく、聖王ルイの直系である彼女を選んだ。彼らはシャルロットの肖像を持ち帰り、これに心を動かされたジャヌスは、代理人による結婚をおこなわせた。持参金は8万フランで、名づけ親のシャルル6世は、金貨6万エキュ(6万7,500フラン)を加えた。代理人による結婚式は、1409年8月2日にムランの城で行われ、王や王妃イザボーらが臨席した。
シャルロットは、ムランをおよそ60人の供とともに出発した。そのなかには庶出の兄ジャンもいた。出発前に、ベリー公ジャンに、キリストの受難を描いた4枚組の板絵を贈った。旅は、バーゼル、ヴェネツィア、ラグーザ、ロドス島を経て、キュレニア城に着いた。盛大な供回りには、多くの音楽家が含まれていた。1411年8月25日、ニコシアの聖ソフィア大聖堂で、ジャヌスと結婚式を挙げた。1412年には、宮廷の使用人は多く、給与として7000ベザント以上があてられていた。彼女は、フランス文学と音楽が栄える宮廷社会をただちに築き、この結婚は、ジャヌス時代のリュジニャン家の宮廷でフランス文化が復活する礎になったとされる。
シャルロットはきわめて信心深く、年代記作者によれば、厳しいほどだった。ニコシアのアウグスチノ会修道院の施療院を修復した。兄ジャックとは近しく、彼が行うジャンヌ=マリー・ド・マイエの列聖調査にも協力し、夫妻はこの聖女に特別な信心をもった。フランシスコ会やクララ会の改革派とも近かった。ギー13世・ド・ラヴァルなどのフランスの領主が訪れ、彼女は故郷とのつながりを保った。
夫妻には6人の子が生まれた。ジャックは1416年ごろに亡くなった。1414年生まれのジャンは、のちのキプロス王ジャン2世である。1415年11月7日には双子が生まれたが、幼いうちに亡くなった。1418年生まれのアンヌは、サヴォイア公ルイと結婚し、19人の子を産んだ。マリーは婚約したが、結婚する前に亡くなった。シャルロットは1422年1月15日に、ペストで亡くなり、ニコシアの王家のドミニコ会修道院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- Jelena Nelipcic (1422年没)
- ミシェル・ド・フランス (1422年没)
- タッデーオ・ディ・バルトーロ (1422年)
- シャルル6世 (フランス王) (1422年没)
- ヨハン4世 (メクレンブルク公) (1422年没)
同じ地域に関係する人物
- ソロイのクレアルコス (紀元前300)
- ジャック3世 (キプロス王) (1474年没)
- エレニ・パレオロギナ (1458年没)
- ゲオルギオス・バシリウ (2026年没)
- ジェンゲッレール・ジュラ (1999年没)