HISTORICAL PERSON · 1960年没

ヴァルター・フンク

ドイツの政治家。ヒトラー内閣の経済大臣やライヒスバンク総裁を務めた。もとは経済紙の編集局長で、経済問題の専門家として知られた。

生涯
1960年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / デュッセルドルフ)
出生地
ロシア連邦(ヤースナヤ・ポリャーナ (カリーニングラード州))
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

ヴァルター・エマヌエル・フンクは、1890年8月18日に東プロイセンのトラケーネン近郊で、実業家の子として生まれたドイツの政治家である。ナチス政権の経済大臣とライヒスバンク総裁を務めた。1908年からベルリン大学とライプツィヒ大学で法律、経済、哲学を学び、1912年に法学の博士号を得た。その後ジャーナリストとしての研修を受け、第一次世界大戦が始まった1915年に徴兵されたが、病気のため翌年に除隊となった。1916年に保守系の経済紙「ベルリン株式新聞」に入り、経済部門の編集局長を務めた。専門誌にも多くの記事を書き、経済問題の専門家として国際会議などで講演もしている。

1920年に発表した論文で金融界の注目を集め、通貨改革に関する小冊子も出版した。1923年のハイパーインフレーションの際には、議会制民主主義の失敗を非難し、独裁体制への移行を訴えたが、ヴァイマル共和政に反対する運動に加わったわけではなかった。しかし1924年のドーズ案と1929年のヤング案には反対し、保守的な右派運動に近づいていった。1930年頃からナチ党と接触し、1931年春にヒトラーと知り合って深く感銘を受けたという。同年に入党し、シャハトの推薦でヒトラーの経済顧問となって、資本家や大企業とナチ党の橋渡し役を務めた。1932年7月の選挙で国会議員に当選し、党の経済評議会の副議長などを務めた。

1933年1月30日にヒトラーが首相になると政府首席報道官に任じられ、3月には国民啓蒙・宣伝省の次官となった。大臣ゲッベルスの支持を得たが、実際の仕事は老齢のヒンデンブルク大統領への報告官にすぎず、同年8月に大統領が死去すると事実上解任され、11月に帝国文化院の副院長に任じられた。1937年11月に、ゲーリングと対立していたシャハトが辞任すると、一時ゲーリングが経済相を兼ねたのち、1938年2月にフンクが経済大臣となった。従順さをヒトラーに評価されたが、立場は不安定で、実際にはゲーリングの指示を受けていた。1939年1月にライヒスバンク総裁となり、同年8月には国防閣僚会議の委員にも任じられた。経済大臣としては「アーリア化」を進め、ユダヤ人の財産の没収と経済活動の禁止を実行した。1938年11月の「水晶の夜」についても、ユダヤ人の犯罪的な攻撃に対する国民の怒りの表れだとして正当化した。1940年7月には、ドイツ主導のヨーロッパ経済圏を構想するフンク計画を発表した。1942年には親衛隊のヒムラーと秘密協定を結び、絶滅収容所で殺害されたユダヤ人の貴重品をライヒスバンクに引き渡すことに合意した。1943年9月にシュペーアの率いる軍需省の中央計画委員となったが、以後は影響力を失い、アルコール依存症に陥ったとされる。

敗戦後はニュルンベルク裁判にかけられ、4つの訴因すべてで起訴されたが、自分はゲーリングの四カ年計画を実施したにすぎないと主張した。平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪で有罪となり、共同謀議は無罪とされ、終身禁錮刑を言い渡された。シュパンダウ刑務所に収監されたが、1957年5月に健康上の理由で釈放された。1960年5月31日にデュッセルドルフで死去した。

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