HISTORICAL PERSON · 2016年没

ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー

西ドイツの政治家。自由民主党の党首として社会民主党のシュミット、次いでコールと連立を組み、1974年から18年間副首相兼外相を務めた。ドイツ史上最長の外相在任。

生涯
2016年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / Pech)
出生地
ドイツ連邦共和国(Reideburg)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

ハンス=ディートリヒ・ゲンシャーは、1927年3月21日に、ハレ近郊のライデブルクで生まれたドイツの政治家である。この土地は東西分断後に東ドイツ領となった。父は法律家だったが、10歳のときに亡くなった。1943年から空軍補助兵として兵役に就き、1945年にはナチ党員になった。この入党について、本人は部隊の一括申請によるもので当時は知らなかったと述べ、資料にも食い違いがある。敗戦で短期間捕虜となり、戦後は建築補助作業員として働きながら高校に通い、1946年にアビトゥーアの追試に合格した。同じ年の冬に結核にかかり、その後10年ほど入退院を繰り返した。

ハレ大学とライプツィヒ大学で法学と経済学を修め、1949年に第一次国家司法試験に合格してハレ地方裁判所の試補となった。1946年には東ドイツ自由民主党に加わっていたが、1952年8月に西ベルリン経由で西ドイツへ逃れ、自由民主党に入党した。1954年にハンブルクで第二次国家司法試験に合格し、ブレーメンの法律事務所に勤め、同年にブレーメンの青年部の副代表に選ばれた。1965年に連邦議会に初当選し、1998年に引退するまで議席を保った。議員団事務局長、党事務局長、副党首を経て、1969年にヴィリー・ブラント内閣の内務大臣となった。1972年のミュンヘン五輪の人質事件ではイスラエルの特殊部隊派遣の申し出を断り、人質との交換に自らを差し出したが、犯行グループに拒まれた。救出作戦は悲劇に終わり、内相は辞任を申し出たがブラントに受け入れられなかった。のちに対テロ特殊部隊GSG-9を創設している。

1974年、党首で外相のヴァルター・シェールが大統領に転じると、ヘルムート・シュミット内閣の外務大臣兼副首相に就いた。1976年には国連総会で、人質犯のいかなる要求にも応じないとする対テロ決議を提案して可決された。1982年に社会民主党と自由民主党の関係が悪化すると、閣僚4人とともに辞任し、シュミットへの建設的不信任案に賛成して、ヘルムート・コールを首相に擁立する連立組み替えを進めた。この政権交代は大きな論争を呼んで党勢が後退し、1985年に党首選への立候補を辞退したが、国民の支持は失わなかった。コール政権でも副首相と外相を兼ね、1984年にはイラン革命後で初の欧米の外相としてイランを訪れた。

1991年にクロアチアとスロベニアが独立を宣言すると、承認が戦争を防ぐと主張し、フランスなど他の加盟国の反対を押しきって、12月23日に両国を承認した。これはユーゴスラビア破滅のきっかけをつくったとも批判され、承認を進めた功績とみる評価もある。最大の功績は、冷戦の終結に果たした役割とされる。1988年にはレフ・ワレサと会見し、1989年9月30日にプラハの西ドイツ大使館のバルコニーから、出国できると伝える演説を行い、4000人の亡命希望者が歓呼で応えた。欧州統合も推進し、イタリアのコロンボ外相とゲンシャー・コロンボ・プランを提唱した。1992年に健康上の理由で外相を退き、在任は通算18年に及んだ。引退後は弁護士として活動し、2016年3月31日、心不全のため死去した。

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