HISTORICAL PERSON · 1419年没

定宗 (朝鮮王)

李氏朝鮮の第2代国王。太祖李成桂の次男で、1398年の第一次王子の乱の後に世子となり、同年に譲位を受けて即位した。弟の靖安君の影響下で首都を開京へ戻し、1400年に王位を弟の太宗に譲った。

生涯
1419年没
死亡地
大韓帝国(ソウル特別市 / 漢城府)
出生地
朝鮮民主主義人民共和国(咸興本宮)
出典
世界地図
大韓帝国(ソウル特別市)

伝記

定宗は、1357年7月に生まれ(18日とも26日ともされる)、1419年10月に没した(15日とも24日ともされる)、李氏朝鮮の第2代国王である。在位は1398年から1400年まで。諱ははじめ芳果で、のちに曔と改めた。世子になる前は永安君と呼ばれた。太祖李成桂と神懿王后韓氏の次男として生まれた。穏やかで気前がよく、勇猛で知略にも優れていたという。高麗の末期には、父に従って多くの戦いに加わり、功績を立てた。倭寇の討伐では、1377年の智異山などで戦ったとされる。1392年に父が王位に就くと、王子となった。

太祖には2人の妃があった。最初の妃は6人の息子(定宗を含む)を産み、太祖が即位する前に亡くなった。2人目の妃の康氏には2人の息子がいた。太祖は康氏の産んだ末の息子を寵愛し、鄭道伝もこの子を後継者に推したため、ほかの王子たちの強い不満を買った。1398年8月、太祖の五男の靖安君李芳遠(のちの太宗)が、多くの武人とともに起こした第一次王子の乱で、2人の異母弟と鄭道伝、その一派の多くを殺した。李芳遠ははじめ自分は王位に関心がないと見せようとして、そのときの長男にあたる芳果を、王世子に推した。本来王位に就く意志のなかった芳果は、言葉を尽くして辞退したが、長男の鎮安君李芳雨は既に亡くなっており、実権を握る靖安君に強いられて、仕方なく世子となった。1か月後の同年9月、父太祖が失望して譲位し、芳果は朝鮮国王となった。側室とのあいだに多くの庶子がいたが、王妃金氏とのあいだに嫡男がなかったことは、靖安君には好都合であった。この年、王は都を漢陽から旧都の開京に移した。王子の乱が起きた背景に、漢陽の運気が悪いという話があったためである。

在位した2年のあいだ、定宗は靖安君の影響下にあった。李芳遠の意向で、権力者たちの私兵を解体し、軍事権を国家の最高軍事機関である義興三軍府に集中させた。1400年、李芳遠と兄の李芳幹とのあいだで争いが起こり(第二次王子の乱)、李芳遠の軍が李芳幹の軍を破って、李芳幹は家族とともに流刑となった。芳幹に反乱を勧めた将軍の朴苞は処刑された。定宗は、自分が弟の政治上の飾り物にすぎないと知っており、李芳遠を王世弟に立て、9か月後の11月13日に王位を譲って上王に退いた。権力の中心である王位から退くことだけが、命を保つ唯一の道だったからである。

上王となってからは、仁徳宮で、撃毬や狩猟、温泉、宴会などの娯楽で悠々自適の暮らしを送り、1419年に63歳で亡くなった。陵は開城にある厚陵で、王妃の定安王后金氏とともに葬られている。治世が2年と短く、実権がほとんどなかったため、朝鮮では定宗を過渡期の執権者とみなして「恭靖大王」と呼んだが、262年が過ぎた1681年12月になって、定宗という廟号が贈られた。

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