伝記
ベアトリーチェ・カーネは、中世イタリアの女性である。最初の夫との死別後、その巨額の遺産を狙うミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと再婚したが、最後には新しい夫に殺害された。1372年頃に生まれたとされ、1370年とする推定もある。存命中とその後しばらくは、単にベアトリーチェとだけ言及されていた。1503年に刊行された『ミラノ史』が「ベアトリーチェ・テンダ」と記したため、長くテンダ伯家の血筋と誤認され、ベアトリーチェ・ラスカリス・ディ・ヴェンティミーリアとも表記されてきた。しかし近年の古文書の精査で、実は傭兵隊長ルッジェーロと、その妻ジャコビーナ・アシナーリの娘だったことが明らかになった。父はミラノの僭主ベルナボ・ヴィスコンティとその後継者ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの配下で、将官や外交官を務めた人物である。
1390年代の半ば、ベアトリーチェは、父の従兄弟で、同じくミラノ公家に仕える傭兵隊長ファチーノ・カーネと結婚した。ファチーノは妻に最大限の配慮と敬意を示し、自分の得た栄誉や富を分け合い、戦場にも妻を連れていったといわれる。1412年5月16日、ミラノ公ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティが暗殺された日に、ファチーノは亡くなった。彼は妻に40万ドゥカートの金、支配していた町や村の荘園群、大勢の重騎兵隊をすべて譲り、ベアトリーチェはイタリア有数の裕福な寡婦となった。
ジョヴァンニ・マリーアの弟で、公位を継いだフィリッポ・マリーアは、顧問官の助言を受け、個人の資産や所領を広げる目的で、20歳以上年上の未亡人ベアトリーチェと結婚した。彼女の財産と軍事力のおかげで、フィリッポ・マリーアは近隣の小規模な諸侯をたやすく降伏させ、兄の時代に弱まった国の支配体制を、父ジャン・ガレアッツォの時代並みに回復させた。ところが、権力の確立に彼女を必要としたにもかかわらず、すぐに彼女を嫌うようになった。前夫ファチーノの人気の高さ、ベアトリーチェ自身の権勢の強さ、高齢で子が望めないこと、年若い妾への寵愛など、理由は複数あった。
公然と糾弾する口実がなかったフィリッポ・マリーアは、姦通を口実に妻を陥れようと考えた。ベアトリーチェの家政機関には、ミケーレ・オロンベッリという若い吟遊詩人がおり、歌とリュートで彼女を楽しませる友人として遇されていた。1418年8月23日、民衆が彼女の解放を求めて反乱を起こす恐れから、公はミラノ市の門を昼過ぎまで閉ざしたうえで、オロンベッリ、ベアトリーチェ、2人の女召使いをビナスコ城へ連行した。4人は拷問を受け、女召使いたちは、公爵夫人とオロンベッリがベッドに並んで腰掛け、リュートを奏でていたと自白させられ、オロンベッリも姦通を自白した。しかしベアトリーチェは、鞭打ち24回を受けても認めなかった。法曹のガスパリーノ・デ・グラッシ・カスティリオーネは、4人全員に姦通と共謀の罪で死刑を宣告した。刑は1418年9月13日、ビナスコ城の中庭で執行された。
多くの記述で、ベアトリーチェは国の行く末を憂う知性あふれる女性として描かれてきた。その正直さと慎ましさの評判のために、彼女の死は無実の殉難と受け取られ、悲運の物語はベッリーニのオペラの題材にもなった。1833年3月16日の初演は、ヴェネツィアのラ・フェニーチェ劇場で行われた。一方、同時代の二人は、彼女が夫のミラノ公への陰謀をめぐらし、神聖ローマ皇帝ジギスムントの宮廷へ使節を派遣したと証言したという。
同じ年に亡くなった人物
- スチェパン・オストヤ (1418年)
- オナ (1418年)
- ベルナール7世 (アルマニャック伯) (1418年没)
- カタリナ・デ・ランカステル (1418年没)
- ニコラ・フラメル (1418年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョアッキーノ・コロンボ (1987年没)
- アルド・ロッシ (1997年没)
- レオ・ヴァリアーニ (1999年没)
- ステーファノ・ヴィスコンティ (1327年没)
- ヨーゼフ・ラデツキー (1858年没)