伝記
ステーファノ・ヴィスコンティは、14世紀から15世紀までミラノを支配したヴィスコンティ家の一員である。1287年ごろに生まれ、アローナの領主となった。父はマッテーオ1世・ヴィスコンティ、母はボナコーサ・ボッリで、十人きょうだいの一人にあたる。マッテーオは、ステーファノが生まれる前の年に、ミラノの領主で大司教でもあった叔父のオットーネから、人民の隊長に任じられていた。母ボナコーサは、隊長スクワルチーノ・ボッリの娘で、1321年に亡くなっている。兄のガレアッツォ1世には息子が一人しかいなかった。
1318年、ステーファノはジェノヴァの有力な貴族の家であるドーリア家とフィエスキ家の血を引くヴァレンティーナと結婚した。父はサッセッロのベルナボ・ドーリア、母はラヴァーニャのエリアナ・フィエスキである。この結婚は父たちの同盟を固めるためのものだった。ヴィスコンティ家も属するギベリン派が、ベルナボ・ドーリアを助けてジェノヴァの教皇派を倒すという約束がかわされていた。ヴァレンティーナには最初の結婚で生まれた娘ティブルツィアもいた。二人の子は、娘のディアナと、マッテーオ2世、ガレアッツォ2世、ベルナボの三人の息子であった。ディアナは1333年ごろにシチリア王国軍の総司令官で提督だったラモン・デ・ビララグートに嫁いだ。
1327年7月4日の夜、ステーファノは、ヴィスコンティ家の客となり、イタリア王として戴冠してまもないルートヴィヒ4世・フォン・バイエルンを迎えた宴席で急死した。この宴席でステーファノは、王の酌をし、毒見をする役目を務めていたという。同時代の人々は、この死を王に対する毒殺未遂と結びつけて考えた。その結果、兄のガレアッツォ1世、ジョヴァンニ、ルキーノと、甥のアッツォーネがモンツァの要塞に投獄された。この事件は、神聖ローマ帝国とヴィスコンティ家の関係が悪化するきっかけとなった。ステーファノと妻ヴァレンティーナの壮麗な墓は、1359年に彫刻家ボニーノ・ダ・カンピオーネが制作し、ミラノのサンテウストルジョ聖堂に残されている。ガレアッツォ1世の子アッツォーネは1339年に男子のないまま亡くなり、領主の地位はステーファノの息子たちに移った。三人の息子は、伯父ルキーノの死後のミラノを共同で統治した。
同じ年に亡くなった人物
- Shams al-Din al-Ansari al-Dimashqi (1327年没)
- テレサ・デ・エンテンサ (1327年没)
- フルク・ド・ヴィラレ (1327年没)
- ハイメ2世 (アラゴン王) (1327年没)
- ロクス (1327年)
同じ地域に関係する人物
- ジャチント・ファッケッティ (2006年没)
- カルロ・アイロルディ (1929年没)
- ミノ・ライオラ (2022年没)
- ヨーゼフ・ラデツキー (1858年没)
- ジョヴァンニ・インヴェルニッツィ (2005年没)