伝記
フェルディナン・ビュイッソンは、1841年12月20日、パリで生まれたフランスの哲学者、教育学者、政治家である。敬虔なプロテスタントの家庭で、父ピエールは弁護士からサン=テティエンヌの裁判所の判事になったが、フェルディナンが16歳のときに死去し、彼は家庭教師などで家計を支えながら学んだ。リセ・コンドルセを出て高等師範学校の一次試験に合格したが、健康状態を理由に、あるいは信条を理由に入学を認められなかった。1862年に文学士号、1868年に哲学のアグレガシオンを得たものの、第二帝政下では教職に就くのに皇帝ナポレオン3世への忠誠宣誓が必要で、共和派の彼はこれを拒んで道を閉ざされた。自由主義的プロテスタントの立場も正統派、改革派のどちらにも受け入れられず、スイスに亡命した。ヌーシャテルで教え、「義務的な教義も奇蹟も不謬の書物も祭司の権威もない自由な教会」を目指して自由主義キリスト教連盟を結成した。1869年のローザンヌでの平和と自由の国際連盟の大会では講演も行っている。
1870年に第三共和政が成立するとすぐに帰国し、パリ17区に設立された最初の非宗教的な孤児院の運営に携わった。1871年、公教育相ジュール・シモンに初等教育視学官に任命された。この人事にはオルレアン大司教が猛反対した。1873年のウィーン万国博覧会、1876年のフィラデルフィア万国博覧会に派遣され、各国の初等教育の実態を報告書にまとめた。1879年、公教育相ジュール・フェリーに初等教育局長に任命され、1896年まで17年間務めた。この間に、1881年6月16日の法律で初等教育の無償制が、1882年3月18日の法律で義務制と公教育の非宗教性が確立され、1886年には公立学校の教員の非宗教性を保障する法律も成立した。ビュイッソンはこれらに関する法案、法規、通達の作成を担った。1887年には『教育学・初等教育事典』を編纂し、教育博物館を設けて機関誌を創刊した。1880年にはフォントネー=オー=ローズに女子高等師範学校を、1882年にはサン=クルーに男子高等師範学校を創設する役割も果たした。
カトリック側が「宗教なくして道徳なし」と批判したのに対し、彼は宗教的でない道徳教育として「ライックな信仰」を唱えた。教会の制度や教義などの外面を「宗教の肉体」、本質を「宗教の魂」と区別し、初等教育では宗教史ではなく人類史を教えるべきだと考えた。1896年にソルボンヌ大学の教育学講座の初代教授に就き、後任にはエミール・デュルケームが就いた。ドレフュス事件のなかでドレフュス擁護派として1898年の人権連盟の結成に加わり、のちに会長を務めた。1902年に急進社会党から下院議員に当選し、1914年まで、また1919年から1924年まで議員を務めた。1904年にフランスとローマ教皇庁の国交が断絶すると、33人の検討委員会の委員長となり、報告者を務めたアリスティード・ブリアンとともに政教分離法を練った。法律は1905年12月9日に成立し、1801年のコンコルダは破棄された。
第一次世界大戦後は国際連盟を支持し、1923年のルール占領の後にはベルリンでドイツの平和運動家に会い、パリに招いて独仏の融和に尽くした。その功績で、1927年にドイツのルートヴィッヒ・クヴィデとともにノーベル平和賞を受けた。1924年にはレジオンドヌール勲章グラントフィシエを受けている。1932年2月16日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- アグスティン・ファラブンド・マルティ (1932年没)
- ハート・クレイン (1932年没)
- ギヨーム・ビゴルダン (1932年没)
- マリア・ブランシャール (1932年没)
- リットン・ストレイチー (1932年没)
同じ地域に関係する人物
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- 聖エリギウス (660年没)
- ジャン=バティスト・ウードリー (1755年没)
- ジャン・リシャール (2001年没)
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