HISTORICAL PERSON · 1417年没

グレゴリウス12世 (ローマ教皇)

ヴェネツィア出身で、教会大分裂の時期の1406年にローマ教皇に選ばれた。退位交渉が決裂し、ピサ教会会議で廃位されても従わず3教皇が並び立ったが、1415年に退位し、1417年に分裂は解消した。

生涯
1417年没
死亡地
イタリア共和国(マチェラータ県 / レカナーティ)
出生地
イタリア共和国(ヴェネツィア)
出典
世界地図
イタリア共和国(マチェラータ県)

伝記

グレゴリウス12世は、1326年にヴェネツィアで生まれた。本名はアンジェロ・コレルで、生家はドージェ(元首)を何人も出したヴェネツィアの貴族だった。ボローニャ大学で神学を学んだとされる。1380年に教皇ウルバヌス6世からカステッロの司教に任じられ、1389年にはコンスタンティノープルのラテン系総大司教に、1395年にはコローネ司教区の管理者に任命された。インノケンティウス7世のもとでは使徒座の秘書やアンコーナの教皇特使を務め、1405年に枢機卿となった。

1406年にインノケンティウス7世が急死すると、コンクラーヴェが開かれた。参加した15人の枢機卿は、教会大分裂を終わらせるため、アヴィニョンの対立教皇ベネディクトゥス13世が退位するなら選ばれた者も退位するという条件で臨んでいた。すでに70歳を超えていたコレルは11月30日に全会一致で選ばれ、12月19日に戴冠した。ところが、両教皇ともに退位の意思は乏しく、サヴォーナでの会見も相互不信やナポリ王ラディズラーオの策動などで実現しなかった。1408年に枢機卿たちの不満が高まると、教皇はルッカに教皇庁の人々を集めて、5月4日に町を出ないよう命じ、見張りをつけたうえで、甥のガブリエッロ・コンドゥルマーロ(後のエウゲニウス4世)を含む4人を新たに枢機卿に任じて地位を固めようとしたため、人望を失った。

1409年3月25日、両教皇を見限った枢機卿たちがピサ教会会議を開いた。両教皇は招かれたが出席せず、会議は6月5日に2人を分裂や偽誓などの罪で廃位し、続いてミラノ大司教ピエトロ・フィラルゴをアレクサンデル5世に選んだが、グレゴリウス12世もベネディクトゥス13世も、教皇だけが公会議を招集できるとしてこれを認めなかったため、3人の教皇が並び立った。グレゴリウス12世は新たに10人の枢機卿を任命して地位を固め、自らの会議をチヴィダーレ・デル・フリウーリで開いたが、参加者は少なかった。ボヘミアではプラハ大司教ズビニェク・ザイーツが支持したが、国王ヴァーツラフ4世はヤン・フスらの支持を当てにして中立を選んだ。支持者だったローマ王ループレヒトの死後、ジギスムントはヨハネス23世を支持し、ラディズラーオも、1411年に軍事的に押し返した末の和睦で、破門を解かれナポリ王位を認められる代わりにグレゴリウス12世を見限り、ヨハネス側に移った。グレゴリウス12世はガエータやリミニへ逃れ、カルロ1世マラテスタの庇護を受けた。

1414年11月に始まったコンスタンツ公会議には、自身は出席せず代理人を送った。この会議では、出席者が国民ごとに集まり、高位聖職者のほか君主や神学者にも投票権を与える方式が採られた。ヨハネス23世は逃亡を図って連れ戻され、1415年5月29日に退位を迫られた。グレゴリウス12世も退位に同意し、7月4日に教書を出して退位し、公会議の正当性を認めた。ポルトの司教枢機卿となり、晩年をアンコーナで過ごして、1417年10月18日にレカナーティで死去した。同年にマルティヌス5世が選出され、教会大分裂はようやく終わった。ローマ教皇のうち、自ら退位した数少ない一人である。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物