伝記
エロール・レスリー・トムソン・フリンは、1909年6月20日、オーストラリア・タスマニア州ホバートのバッテリー・ポイントにあるクイーン・アレクサンドラ病院で生まれた。父セオドアは、タスマニア大学とベルファストのクイーンズ大学で海洋生物学と動物学を教えた学者で、タスマニア初の生物学教授とされる。母リリー・メアリー・ヤングは、結婚後まもなく名をマレルと改めた。妹のノーラ・ロズマリーがいる。本人は母の一族を「海の民」と呼び、生涯続く船と海への関心はそこから来たようである。バウンティ号の反乱者の子孫だと主張していたが、証拠はそうでないことを示している。
子供の頃は問題児で、ホバートの学校を次々に放校になった。1918年、9歳のときに、女王を選ぶ催しでページボーイを務めたのが、舞台に立った最初の例の一つである。1923年から25年にはロンドン郊外バーンズの寄宿学校に通い、1926年にオーストラリアに戻ってシドニーの名門校に入ったが、窃盗を理由に放校された。ここの同級生に、のちのオーストラリア首相ゴートンがいた。その後、シドニーの海運会社で下級事務員となったが、小口現金を着服して解雇された。18歳でニューギニアに渡り、タバコ栽培や金鉱で一旗あげようとしたが、うまくいかなかった。以後の5年はニューギニアとシドニーを行き来し、金鉱発掘夫、船員、漁師、警官など、さまざまな職に就いた。
転機は1933年、バウンティ号の反乱を描くオーストラリア映画で、主役のフレッチャー・クリスチャンを演じたことである。映画の興行は振るわなかったが、これをきっかけに同年末、俳優を志してイギリスに渡った。ワーナーの映画のエキストラとして働いたのち、ノーサンプトンの劇団で7か月、プロの俳優としての訓練を受けた。1934年には舞台監督の女性を階段から突き落として解雇されたが、ワーナーのB級ミステリーで主役を得て、その演技が評価され、ハリウッドに送られた。『海賊ブラッド』(1935年)、『軽騎兵の突撃』(1936年)、『ロビン・フッドの冒険』(1938年)、『シー・ホーク』(1940年)などの剣戟映画で、悪に立ち向かう勇敢な主人公を演じて人気を集め、オリヴィア・デ・ハヴィランドとは何度も共演した。
私生活ではスキャンダルが絶えず、薬物とアルコールの問題を抱えた。1942年には2人の少女への法定強姦の罪で裁判にかけられたが、無罪となった。1940年代後半から人気は下り、1950年代にはスターの座から落ちたとされる。結婚は3度で、年上の女優との間に息子が1人、1943年に結婚した相手との間に娘が2人、1950年のパトリス・ワイモアとの間に娘が1人いる。小説も2冊書いた。1959年10月14日、カナダのバンクーバーで心臓発作により、50歳で死去した。パーティーで客をもてなしていたが、体調を崩して寝室で休んだ際に発作を起こしたという。ロサンゼルス郊外のグレンデールにあるフォレストローン墓地に埋葬された。1960年には、映画とテレビへの貢献をたたえるハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星が2つ贈られた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・パドモア (1959年没)
- エーロ・レートネン (1959年没)
- エルハルト・シュミット (1959年没)
- ジョン・オーガスト・アンダースン (1959年没)
- レイモンド・チャンドラー (1959年没)
同じ地域に関係する人物
- ダニエル・ケリー (1920年没)
- セバスチャン・キャボット (1977年没)
- アーサー・エリクソン (2009年没)
- 新渡戸稲造 (1933年没)
- ブロック・チザム (1971年没)