伝記
ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホは、カスティーリャ王国の外交官であり、作家である。生年は分かっていない。マドリードの貴族で、国王の侍従を務めた。1403年、国王エンリケ3世の命を受け、ティムール朝の創始者で支配者のティムールのもとへ向かう使節団の団長を務めた。この旅の記録として書かれた道中記『タメルラン大帝史』は、1582年に出版された。
エンリケ3世は、ティムールがオスマン帝国のバヤズィト1世に勝ったという混乱した知らせを受け取っていた。ニコポリスの戦いでハンガリー王らの十字軍を破ったバヤズィト1世は、キリスト教世界の脅威だった。王は知らせを確かめて友好を結ぶため、先にパヨ・デ・ソトマヨールらを使節として送り、彼らはアンカラの戦いでティムールがバヤズィト1世を破って捕らえるのを現地で見た。ティムールは王への友好的な手紙を託し、ティムール側の使節ムハンマド・アル・カーズィーと、オスマンの捕虜となっていた3人のヨーロッパの女性を同行させて、使節たちをスペインへ帰した。エンリケ3世はこれに応えて、贈り物を携えた第2の使節団を送り、その団長がクラビホだった。目的は、遠く離れた2つの戦線からトルコ人を挟み撃ちにすることで、オスマンはそのころ空位期にあり、エジプトのマムルークもティムールの攻撃を受けていた。
クラビホは、ムハンマド・アル・カーズィー、ドミニコ会の修道士アルフォンソ・パエス・デ・サンタ・マリーア、近衛兵のゴメス・デ・サラサールらとともに、1403年5月21日にカディスを出航した。一行は地中海を航海し、マヨルカ島、シチリア、ロドス島などを通ってコンスタンティノープルに着いた。本来はジョージアで冬の遊牧のあいだのティムールに謁見するつもりだったが、悪天候と船の難破のために引き返し、1403年から1404年の冬をコンスタンティノープルで過ごした。その後、黒海を越えてトレビゾンドに着き、陸路でアルメニア、イラン、トルクメニスタンを通って、ウズベキスタンに入った。ティムール側の使節の騎乗の速さについていけず、オルドで頻繁に宿営したという。1404年にはペルシアのテヘランを訪れ、ゴメス・デ・サラサールは、7月26日にニシャプールで亡くなった。
一行は1404年9月8日に、ティムール朝の首都サマルカンドに着いた。クラビホはティムール朝の宮廷についての詳しい描写を西洋に伝えた。ティムールが母や妻のために建てさせたモスクは、市内で最も格調高い建築物だったが、完成の直前になってティムールが入口の門を見とがめ、低すぎるから取り壊すべきだと言い出したと記している。待ち望んだ初めての対面は、宮殿の大きな果樹園で行われた。クラビホは、訓練され飾りつけられた象や、宝石や真珠をちりばめた絹の幟、風にはためくテントの天蓋を詳しく書き残した。ティムールは、エンリケ3世を親しみをこめて自分の息子と呼んだという。使節団は数か月滞在し、アンカラの戦いでの勝利を祝った。この戦いは、ティムールとエンリケ3世、フランス王シャルル6世との結びつきを強める結果になった。ティムールの体調が悪く、エンリケ3世への手紙を受け取れないまま、使節団は1404年11月21日にサマルカンドを離れた。帰路は行きよりはるかに苦しく、1406年3月にスペインに戻った。クラビホは1412年4月2日に亡くなった。『タメルラン大帝史』は1859年に英語に翻訳された。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンティネ1世 (ジョージア王) (1412年没)
- ナースィル・ファラジュ (1412年没)
- マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ (1412年没)
- オルジェイ・テムル (1412年没)
- マルグレーテ1世 (1412年没)
同じ地域に関係する人物
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- ホセ・ナバーロ・モレネス (1974年没)
- ガブリエル・デ・ボルボーン (1788年没)
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