HISTORICAL PERSON · 1412年没

オルジェイ・テムル

モンゴル帝国第23代皇帝。明の使者を殺害して対立を深め、永楽帝の親征を受けオノン川で軍が壊滅し、最終的にマフムードに殺害された。

生涯
1412年没
死亡地
モンゴル国(ドンドゴビ県 / モンゴル国)
出生地
モンゴル国(モンゴル国)
出典
世界地図
モンゴル国(ドンドゴビ県)

伝記

オルジェイ・テムルは、1379年に生まれ、1412年に没したモンゴルのハーンである。父はエルベク・ハーンで、ブニャシリ(漢文史料では本雅失里、本雅朱里)の名でも知られ、完者禿(オルジェイト)とも表記される。『黄金史綱』ではオロイ・テムルと記される。即位の年は1403年ともいわれ、1408年とする説もあり、在位は1412年までとされる。

ブニャシリが生まれて20年ほどのち、父エルベクはオイラトに殺されたと伝えられる。1398年に父と対立し、またオイラトの難を避けて、カーブルにいたティムールのもとへ亡命したともいわれる。モンゴル内部の争いを逃れて、ビシュバリクに身を寄せ、ティムールは配下の総督に彼をていねいに迎えるよう命じた。サマルカンドのティムールの宮廷に滞在するあいだにイスラームに改宗したといわれ、クビライの家系で、とくに名高い改宗者の一人となった。ティムールの明遠征にも随行し、ティムールの死後も東へ進んだ。

そのころ、オルク・テムルがハーンの称号を「タタールのハーン」に替え、元の国号も廃したため、多くのモンゴルの氏族が離れていた。ブニャシリはこの機をとらえて、ビシュバリクでハーンを称し、ほとんどの氏族がまもなく彼のもとに集まった。オルク・テムルを廃したアスト部のアルクタイが後援して、彼はモンゴル高原に帰国し、アルクタイは丞相にあたる職に任じられたという。モンゴル高原に戻った彼は、オイラトと覇を争い、明に対しても強硬な姿勢をとった。1409年に明がオイラトの首長たちに王の称号を与えると、モンゴルとオイラトの対立は深まった。

明の永楽帝は彼をなだめようとしたが、1409年にオルジェイ・テムルは明の使者の郭驥を殺して、敵対の意思を示した。永楽帝は猛将の丘福に10万の兵を与えて討伐させたが、明軍が北上する直前、オルジェイ・テムルはオイラトの最有力者マフムードと戦って大敗し、ヘルレン川に駐屯していた。モンゴル軍は丘福の率いる1,000の騎兵に敗れたものの、勝ちに驕って深入りする丘福を伏兵で破り、副将4人とともに戦死させた。

この敗戦に永楽帝は激怒し、1410年に50万の軍勢を集めて親征した。親征の報を聞いたオルジェイ・テムルは西への逃亡を考えたが、アルクタイは従わず、モンゴルの人々は東西に分かれた。オノン川で彼の軍は壊滅し、逃げたときに率いていた護衛はわずか7騎であった。戦後、アルクタイは独自に明へ朝貢し、マフムードが明に北元攻撃を志願すると、オルジェイ・テムルは孤立した。1412年にマフムードによって殺害された。

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