伝記
マルティーノ1世は、シチリア王として在位した人物である。若マルティンとも呼ばれ、1374年ごろ(1376年とも)に、のちのアラゴン王マルティン1世(老マルティン)と、最初の妃マリア・デ・ルナの間に生まれた。アラゴン王ペドロ4世の孫、フアン1世の甥にあたる。父方の祖母レオノールは、ペドロ4世の3番目の王妃で、シチリア王ピエトロ2世の娘であった。
マルティーノは、従姉にあたるシチリア女王マリアと結婚した。結婚は1390年とも、13歳だった1389年7月24日ともいわれる。この結婚は、ギリェム・ラモン3世・モンカダがマリアを連れ去った事件の結果で、ペドロ4世が、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティがすでに交渉を始めていたマリアの縁談を避けるため、ひそかに認めたものだったという。多くのシチリアの貴族が激しく反対し、教皇ボニファティウス9世の支持を得て、結婚の無効を宣言できたとされる。必要な特免を与えてくれたのは、対立教皇のクレメンス7世だけで、この教皇が結婚式を行った。1392年、マルティーノはマリア、父の率いるカタルーニャの艦隊とともにシチリアに上陸した。トラーパニに着いたのち、アンドレア・キアラモンテが握っていたパレルモを取り戻すため軍勢を率いて進むと、キアラモンテに倦んでいた市民が蜂起して城門を開き、キアラモンテは赦免されて王の側についた。シチリアは1379年から君主を欠き、いくつもの党派に引き裂かれて、有力な領主たちに圧迫されていた。マルティーノとマリアはパレルモで戴冠した。
王の寵臣となったアラゴンの貴族ベルナト・デ・カブレラは、キアラモンテを陰謀の罪で訴え、キアラモンテは拷問を受けて自白し、処刑された。その所領のモーディカ伯領は、訴えた者に与えられ、カブレラは大提督の職も得た。この処刑にパレルモの貴族が反発して騒乱となり、宮廷はカターニアへ逃れ、反乱はシチリア全土に広がって、マルティーノの手に残ったのは、カターニアとメッシーナとシラクサだけとなった。この混乱に乗じて、北アフリカのハフス朝の海賊が襲い、シラクサの司教を含む多くの住民を連れ去った。パレルモとモンレアーレの大司教の助言で、パレルモの人々が服従し、ほかの都市も従って、平和が戻った。1396年5月19日には、叔父のフアン1世が男子なく死去し、マルティーノの父がアラゴン王位を継いだ。抵抗は1398年にすっかり鎮められたとされる。
1401年5月25日にマリアが死去すると、マルティーノはその遺産を相続した。マルティーノは、バルセロナ家とアンジュー家の間で1372年に結ばれていた条約を無視して、単独の君主として支配を続けた。1402年または1403年には、ナバラ王カルロス3世の娘ブランカと結婚した。2度の結婚で生まれた子は、いずれも幼くして死に、成人した子は得られなかった。庶子のルナ伯フェデリーコだけが彼より長く生き、祖父のマルティン1世は、彼をアラゴンの継承者にしようとしたが、成功しなかった。
サルデーニャが老マルティンに反旗を翻すと、マルティーノは父を助ける遠征軍を率いて1408年10月に到着し、1409年6月30日にサンルーリで反乱軍に大勝した。しかしその直後に病に倒れ、7月25日にカリャリでマラリアのため死去し、大聖堂に葬られた。父のマルティン1世がマルティーノ2世としてシチリアも治め、ブランカに摂政をまかせたが、翌1410年に父自身も死去した。マルティーノに先立たれて嗣子がなかったため、王位継承者が決まるまでに2年を要した。
同じ年に亡くなった人物
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- ブランシュ・オブ・イングランド (1409年没)
- フランセスク・アシメニス (1409年)
同じ地域に関係する人物
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- ジュリオ・アンジョーニ (2017年没)
- ルイージ・デ・マジストリス (2022年没)
- マリーザ・サンニア (2008年没)
- Claudio Olinto de Carvalho (2016年没)